ギャンブル依存症克服はストーリーを読んで!

ギャンブル依存症を題材にした小説はいろいろと有りますが、ここでは読むだけでギャンブル依存症を克服し、防止までしちゃおうって寸法です。 きっとあなたのお役に立てると思います、是非お読み下さいね!

『朝の告白』

朝の告白 その11

程なく、次の勝負が始まった。私はその勝負に勝ち、それから三回連続で勝ち続けた。 それまでに失った金を全て取り戻した。それどころかその倍以上のチップが所狭しと目の前に積み上げられていた。アーニャがうつろな目で言った。
「だんな! いい賭けっぷりじゃないか! あたい、惚れ直しちゃいそうさ! あたいはもういいからさ、頑張って稼ぐんだよ!」
アーニャの茶色い瞳は潤んでいた。あれだけのウオッカを飲み、彼女はしこたま酔っていたのだろう。舌もかなりもつれていた。
「ほらね! あたいの言った通りだったろう? あそこでやめてたら、大損してるとこさ! だんな、初めてにしちゃ見事な賭けっぷりさ……」
私はその勝負を最後に全てのチップを換金すると、アーニャを連れてホテルの外に出た。彼女は殆ど泥酔しており、何とか歩くことはできたが肩を担いでやらねばならないぐらいだった。私はボーイに頼んで馬車を手配すると、アーニャの泊まっているホテルへと向かった。そしてクロークで事情を話して鍵を受け取り、部屋で彼女をベッドに横たえると葉巻に火をつけた。
アーニャは酔いつぶれており、ベッドに沈み込むようにして眠っていた。その寝顔は子供のように幼く、可愛らしいものだった。私はその日の出来事の一部始終を思い出していた。窓際にあるソファに座り、無意識に上着の内ポケットに有る札束を掴み出してみた。 来た時に比べ、明らかに分厚い札束がそこに入っていた。
不思議な充実感が体を包んでいた。賭けをし、一旦は六万ルーブルもの金を失いかけたが、最終的に持っていた金は一三万ルーブルほども増えていたのだ――。私はその時ふと思ったのだ。
――バクチというものは、普通の者がするならば、到底勝てるものではないのかもしれない。しかし、勝負する時とやめる時とをきっちりと見極めることができる者なら、勝ち続けてゆくことも可能なのだ――と。
そう! この時私は愚かにもそう思ったというわけさ。そして、心の片隅でにやりと笑っていた。――たったの一晩で、十三万ルーブルも勝った――と。
当時、十三万ルーブルも有れば、少なくともあと二人の召使を雇うことができただろう。そんな大金を僅か一晩で私は稼いだのだ。そして私はこうも思った。 
――良いところで止めれた、俺は溺れてなんかいないからこそ止めれたんだ。ちゃんと冷静にするのならば、バクチもあながち悪いものではない。――
それから私が考えたのは、また次にやるとしたら、いつなのだろうということだった。だが、ここまで考えて、私はハッとした。
――そうだ! そもそも私はこの街へ、バクチに溺れるアーニャを連れ戻すためにやってきたのではないか。それにもかかわらず、昨夜はアーニャと一夜を共にし、そればかりか勝ったとはいえ、バクチに手を染めてしまった――
しかしあの時の私は、それはそれで良いのだと思ってしまった。
――そうだ、これで良い! このまま明日アーニャを無事にスタヴォロポリまで連れ帰り、御者を跪かせ謝罪させるのだ。そして、帰りの馬車の中でゆっくりとアーニャを諭し、二度とバクチに手を出さないと誓わせれば良いのだ。御者からは約束どおり、一番良い馬を貰い受けることにしょう。実に楽しい! これは喜ばしいことだ!――
私は満足感に浸っていた、そしてこう考えていた。
――バクチは今宵限りだ、もうここに来ることもあるまい。こうやって勝ったときにきっちりと止めれない者が、バクチで身を滅ぼすのだ――と。
その時、アーニャが呻き声を上げた。私はベッドの横に行きアーニャに声をかけた。
「アーニャ、具合はどうだね?」
すると、アーニャが突然手を伸ばし私の腕を掴んでこう言った。
「もう朝なの……?」
「いいや、十二時を回ったところさ」
その声を聞くと、彼女は大きく目を開けた。
「行かなくちゃ!」
彼女はそう呟いてベッドから起き上がり、立とうとした。私は、思わず叫んだ。
「行く? こんな時間からどこへ行こうというんだ!」
彼女が叫んだ。
「わかりきっているじゃない! さっきの負けを、取り戻しに行くのよ!」

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朝の告白 その12

私は信じられなかった。 目の前で身支度し始めたアーニャを見ながら、こう考えた。
――これだけ酔い潰れているのに、この女はまだカジノに行こうというのか!? 何ということだろう! どこまでやれば気が済むのだろう?―― 
私はアーニャに言った。
「アーニャ、お前はもう勝負に行ける状態じゃない! 私が酔い潰れたお前をここまで連れて来たんだ。だから、今夜はもうおやすみ……」
私はそう言って、アーニャを抱きしめた。すると、突然アーニャが私を突き飛ばした。
「あたいが欲しいんだったら、もうひと勝負付き合ってからさ! あんたは勝ったかもしれないさ! でも、あたいは負けてるんだよ! このまま、眠るわけにはいかないのさ!」
彼女はそう言いながら、さっさと身支度をし続けた。私はあっけにとられて、呆然と立ちすくんだ。身支度を終えて彼女が叫んだ。
「さあ! 引き返すんだよ! 取り戻して、先にやられた分の倍は稼ぐのさ!」
何ということだろう。今宵限りと思っていたカジノへ、私はまたしても行くはめになってしまったのだ。だがあの時の私は、こう思っていた。
――俺はもう勝負なんかしない! アーニャに気の済むまで勝負させて後は連れ帰るだけだ。今から行って勝負すれば、今度は間違いなく負けるだろう。どんなことがあっても、俺はもう過ちを繰り返しはしない――と。
私はそう心に誓って、アーニャと共に深夜のカジノへ繰り出した。しかし時刻はすでに一時を回っていた。私はアーニャに言った。
「アーニャ、もう一時を回っている。 そろそろカジノも終わりではないのかね?」
「大丈夫よ、何時まででも客がいる限りやっているわ」
そしてアーニャは、思い出したように呟いた。
「それに……、こんな時間にしか来ない客もいるのよ」
仕方なく私は彼女と一緒に馬車に乗り込んだ。眠そうな顔をしながら御者が言った。
「だんな! もうこれから先、馬車は有りませんぜ。御用の時は、朝になってからお申しつけくださいまし」
私たちはカジノに戻った。確かにそんな時間だというのに、先程と同じくらいの人が遊戯に興じていた。気が付いたのは、軍服を着ている者が数名いたことだ。彼らは、赴任先からの帰還兵だった。アーニャは先程と同じテーブルに付き、ボーイを呼んで紙幣をチップに替えた。
今回のアーニャはついていた。三回連続で勝った。彼女の前にチップの山が積み上げられた。彼女は言った。
「ほら! こんなもんさ、取り返すなんてわけないことなのさ。でも、ここでやめちゃだめ! この調子で一儲けするのよ」
私は呆れ果てていた、そして思った。
――確かにそうかもしれない。この勢いで行けば、おそらく負けた分の倍くらいは儲かるのかもしれない。それにしても……、なんという執着だろう! この女は、なぜここまで勝負へ執着するのだろう?――
アーニャが言った。
「あんたはやらないのかい? 相変わらず、臆病なんだね!」
私は怒りで手が震えた。
――意気地なしというからこそ、私は先程も危険な賭けをしたではないか!――
しかし、その挑発に乗って勝負するわけにはいかなかった。私は自分に言い聞かせ、怒りを収めることにした。
――今再び勝負するならば、負ける可能性だってあるのだ。ここは、我慢しよう。この女の言いたい様にさせておけばいいのだ――
あの時の私は、一旦そう考えた。そしてそれは、今考えると正しかったといえるだろう。だから私はアーニャに言ったのさ。
「私はもう疲れた、お前は好きにするがいい」
だが悪いことは重なるものだ。その時、一人の男が突然我々のテーブルの前に現れたのだ。男はアーニャの横に歩み寄ると言った。
「アーニャ! 久しぶりだな、良い調子じゃないか!」


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朝の告白 その13

男は軍服を着ていた。肩に将校の位を示す紋章、胸には三つの勲章を付けていた。彼は、アーニャの横にいる私に気が付くと言った。
「アーニャ、こちらはお連れさんかい?」
「そうよ、お世話になっている農場主さんなの。イワン・オフロフスキーさん。こちらはロシア軍西部作戦指令部少尉のルドルフ・カシューリンさんよ」
男は帽子に手をかけ、丁寧に一礼した。
「初めまして、イワン・オフロフスキーさん。ロシア西部作戦指令部隊少尉のルドルフ・カシューリンです。よろしく……」
私も男に挨拶した。
「スタヴォロポリで農園を営んでいる、イワン・オフロフスキーです。お目にかかれて光栄です」
男が言った。
「そうですか! 私たちの部隊はここネヴィンノムィスクに駐留しておりますが、お噂はよく耳にしていますよ。お近づきになれて、光栄であります。今日は、ブカレスト(注二〇)から帰還したばかりでして……。そうそう!」
男はそう言うと、ボーイを呼んだ。
「イワンさん、お飲み物は何が好みですか? お近づきの標しに一杯、ご馳走させていただきましょう!」
「それではルドルフ少尉、お言葉に甘えてスコッチを頂戴いたします」
「そうですか。それでは私はウオッカを。いや、最近はここに来て遊ぶことも、なかなか叶いませんでしてね……。バルカン半島は、もうかなりきな臭い状態ですよ。もっともこれは、イワンさんに関係ないお話でしたね」
軍人はそう言うと、気さくな笑顔を浮かべた。私たちは乾杯した。軍人が言った。
「ところでイワンさん、カードはなさらないんですか?」
私は答えた。
「私はそもそも、こういった勝負をしないんですよ」
軍人が答えた。
「そうですか。私は今日調子が悪くて、もう二万ルーブルやられていますよ。もっとも、このままではいられませんがね!」
少尉は笑ってそう言うと、いそいそと私たちのテーブルに座り勝負に加わった。
あの男は軍人だが、悪い男ではなさそうだった。ただし、気になることが一つあった。私はアーニャの視線が気になっていたのだ。なぜなら彼女が時々この軍人をみつめ、微笑んでいたからだ。
アーニャ自身はもう既に負け分を取り戻し、目の前のチップは優に二万ルーブルを超えていた。それからの勝負は軍人も好調だった、アーニャと軍人はお互いに時々、冗談を言い合いながら勝負し続けた。アーニャの目は輝いていた。それは、自分が勝った時のみならず、軍人が勝った時もそうだった。
――アーニャはこの少尉と、特別な関係なのかもしれない。――
私は、そう感じていた。一方で、賭けもせずにじっとその場に居ることは大きな苦痛だった。しかし私は、心の中で固く思っていたのだ。
――ここで勝負をすれば、負ける事だって有り得る。そう! ここは我慢して過ごさねばならない――と。
突然軍人が叫んだ!
「よし! これで全て取り戻した。ここからの勝負だ!」
その時、私は見たのだ! アーニャが燃えるような眼差しで軍人を見つめているのを――。私の心は嫉妬で揺れ動いた。それは生まれてこのかた、一度だって経験したことのない不思議な感情だった。
私はいつだって憧れられる存在だった、自ら女を好きになり、ましてや嫉妬するなど思いもよらないことだった。そんな私が、なぜそんなバクチ好きの女に拘ってしまうのか、全くわからなかった。
私は言った。
「アーニャ、まだやるのかい?」
「勝負はこれからよ! あなたも見てるだけじゃ面白くないでしょ! 勝負したらいいのに」
アーニャは私の方を振り向きもせず、ぶっきらぼうに答えた。アーニャの言葉に続き、ルドルフ少尉が笑いながら言った。
「そうですよ! ここの親は弱いですから狙い目ですよ」
ディーラーの男が、両手を上に挙げておどけてみせた。彼が手札をめくり、アーニャが叫んだ。
「ほら! また二人とも勝ちよ! つきだしたら、本当にこんなものなんだわ!!」
私の心は揺れ動いていた。既に頭の中は嫉妬で狂い、愚かな考えで満たされ始めていたのだ。
――もし私が今この席を立ったら、果たしてアーニャはあのホテルへ戻ってくるだろうか? このまま賭け続け、この少尉と一夜を過ごす可能性だって有るのだ。そうすれば、明日の午後馬車に乗せてスタヴォロポリに連れ帰ることなど、おそらくできはしまい――
――それならば、ここは一緒にカジノで過ごした方が得策ではないか? そうだ、勝負は必ず負けるとは限ってはいない! 勿論勝てることだってあるのだ! しかも俺はさっき、ちゃんと止め時を考えて一儲けしたではないか! 手許には先程勝った一三万ルーブルもの金が有る……。たとえこれが無くなっても、私はびた一文損をすることはないのだ――
私は言った。
「それではルドルフ少尉、私もひと勝負するとしましょう」
そして私はボーイを呼び、ルーブル札を掴み出して言った。
「これを替えてきてくれ、それとウオッカを三杯だ!」
こうして、私は五つ目の過ちを犯した。そう! 私は知らなかったのだ。甘すぎる果実には毒が溢れているということを――。

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朝の告白 その14

それからの勝負、私はことごとく負け続けた。一三万ルーブルという金は、一時間足らずで消えうせた。そして、ルドルフ少尉の目の前にはおびただしい数のチップが積み上げられていた。あの時の彼は四十万ルーブルくらい、勝っていただろう。少尉の顔は紅潮していた。あまりの調子よさに興奮していたのだ。
少尉が笑いながら言った。
「アーニャ! 今日は何でもご馳走してやろう! イワンさんもどうぞ。こんな日くらいご馳走しないとバチが当たるってもんです」
私は、金をチップに交換し勝負し続けた。それまでに負けた金は三〇万ルーブルに達していた。浮かぬ表情の私を見て、ルドルフ少尉が少し気の毒そうな顔で言った。
「イワンさん、まあこんな日もありますよ。私だって今日は最初、からっきし駄目だったんですからね。でもこの通り、つき始めたらこっちのもんですよ」
その時の私に誰が何を話しかけても、おそらく無駄だったろう! 私は頭に血が上っており、何を話されても受け入れることなどできなかったに違いない。そう! 私は頭の中で、こう考え続けていたのだ。
――この負けを一体どうやって取り戻したものか?――と、そのことばかり考えていたのだ。
私の負けがまさに四十万ルーブルを超えようとする頃、軍人が立ち上がり、そして言った。
「それではイワンさん、私はそろそろこの辺で失礼いたします。明日にはまたブカレストに発たねばなりませんのでね。ご幸運をお祈りしますよ。それとアーニャ、たまには顔を見せておくれ、待っているよ……」
軍人はそう言うとカジノを去っていった。アーニャが言った。
「私たちも帰りましょうか? あなたも調子が悪いことだし……」
私は驚き、そして愕然とした。
――冗談じゃない! ここまで付き合ってやったではないか! そのせいで、私は四十万ルーブルもの大金を失ってしまったのだ――
私はアーニャに食って掛かった。
「アーニャ、私は四十万ルーブルも負けているのだよ! このまま帰れというのかい?」
アーニャが言った。
「駄目な時は駄目なものよ。それに、今日はもうここも終わりだわ」
私は呆然とした。
――これだけの金を失った結末がこれか? 行くことを止めた時に私の言うことを聞かずにいたこの女が、今こんなことを言って逆に私を諭すのか――

カジノの中では既に他の客たちが引き上げ始め、残った客はこのテーブルの我々だけとなっていた。ディーラーの男が頭を下げて言った。
「旦那様、そろそろ終わらせていただいてよろしいでしょうか?」
私は吐き出すように言った。
「これだけ負けた客に、もう帰れと君は言うのかね?」
アーニャが言った。
「あなた……、夜にまた来れば良いのよ。一休みしてから出直すのよ、そうすればまた勝てるわ」
私はアーニャの言葉を聞いて身震いした。
――夜にまた――だと? とんでもない! 昼過ぎになれば、迎えの馬車がやって来るのだ。また馬車を引き返させることなど、到底出来ない! そうだ! そんなことなど絶対に許される筈がない――
しかしその一方で、私はこの甘い言葉に惹かれていた。失った金を取り戻してから帰るのが、一番好ましいことだと考えたのさ。そしてこうも考えた。 
――しかし、またカジノで勝負するためにはもう一夜をここで過ごさねばならない。何といえども、昼過ぎにはもう次の馬車がやって来るのだ。一体、どうしたものか――
私とアーニャがカジノを後にした時には、もう朝日が眩しく輝いていた。私たちはアーニャのホテルに戻ると、そのままベッドに倒れこんだ。アーニャが言った。
「あんた、あたいが欲しくないの? その為にああやって付き合ってくれたんでしょ?」
私は頭を抱えたままで言った。
「私は、四十万ルーブルもの金を失ったんだ。お前にわかるか? 四十万ルーブルといえば、農場の小作全員に払わせる一ヶ月分の地代の合計と同じだ。これだけの金を、私はほんの数時間で摩ってしまったんだ……」
アーニャが言った。
「勝負は時の運さ! そりゃ負けることだってあるわ、でも…」
それからアーニャは、私の首に腕を巻きつけながら言った。
「勝てることだってあるのよ。イワンさん、もう一晩あたいに付き合いなよ。そして取り戻すのさ!」
私はアーニャを抱きしめ、唇を合わせた。そして狂おしくアーニャを抱きながら、馬車が来たらどうすべきかを考え、思い悩んでいたのだ――。

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朝の告白 その15

私たちは抱き合いながら、ベッドの中で眠り続けていた。疲れ果てていた。前の晩は一睡もしていなかったからね。すると突然、部屋のドアがノックされた。
「イワン・オフロフスキーさま、玄関にお迎えの馬車が参っております」
ボーイはそうドアの前で告げると立ち去った。スタヴォロポリから迎えの馬車が到着したのだ。私は急いで着替え、馬車の元へ向かった。召使のマスラクが私を笑顔で迎えた。
「旦那様、ご無事で何よりです。奥様も少し心配のご様子でしたよ。何かお困りなことでも有りましょうか?」 
マスラクは一番年長の召使で、ドゥエル同様、真面目で口が堅く信頼できる男だった。 私は彼に言った。
「マスラク、聞いて欲しい。少し仕事に手間取っている。そのあたりの事をリザにうまく伝えて欲しいんだ……」
「よほどお困りですか? 何か私でできることが有ればおっしゃってくださいまし」
「しばらくの間、どこかで待っていてくれないか。今日この馬車で帰れるかどうか、まだわからんのだ。それと、私の身の回りの物は持ってきてくれただろうね?」
マスラクが答えた。
「はい、だんな様! それと、奥様からこれを託ってまいりました」
マスラクはそういうと、私に分厚い紙包みを手渡した。私は召使と別れると、それを開いた。その中には百万ルーブルの札束とリザからの手紙が入っていた。

愛するあなた

あなたの物一式をマスラクに託けます。
その他に、当面の路銀(注二一)として、
百万ルーブル入れておきました。

仕事で必要なこともあるでしょうから……。

それと、農場は変わりありません。
全てうまくいってるわ、子供たちも元気よ。

心配いらないから、仕事に勤しんでください。

リザ

その手紙を読んで、私の心は揺れ動いた。あの時は確かに、リザにすまないことをしたと感じていたのだ。しかしなんという事だったろう! 咄嗟に身を包んだのは得も言われぬ安堵感だった。
――ちょうど乏しくなってきた路銀に、この百万ルーブルは実に助かる。これだけの金を持って今夜勝負すれば、きっと今度は勝てるに違いない――
あの時の私は、そう思ったというわけさ。
――どちらみち、今日馬車を出すとすれば昼一番くらいにはここを発たねばならない。そのことを考えれば、今日一晩を過ごし明日の朝一番で帰っても良いのだ――
馬鹿げたことだが、私は自分に対して都合よく言い訳した。あの時から、既に私は狂っていたといえるだろう。
それから私が部屋に戻ると、アーニャは既に目を覚ましていた。アーニャが、ベッドの中から眠そうな声で言った。
「どうしたの?」
「迎えの馬車が来たんだ」
突然、アーニャはベッドから起き上がり言った。
「あたしたち、もう帰らなきゃいけないの!? あたい……、もう少し、あなたとこうしていたいわ」
私は言った。
「今夜もう一晩は、ここに留まる事にしよう。ただし、明日の朝ここを引き払う。わかってくれるね?」
アーニャがはしゃいだ。
「嬉しいわ! もう一日ここで過ごせるなんて! でも今日一日だけね。こんな生活も……。明日からは、またあの男の下で炊事に洗濯、そして赤ん坊にミルクをやってさ……」
そしてアーニャは、肩を落としてこう呟いた。
「それに、あんな男に毎晩抱かれなきゃならない」
アーニャの頬を一筋の涙が流れ落ちた。私は何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
突然、アーニャが自分の乳房をつかみ出した。そして、自分の手でそれを扱き始めた。 乳白色の乳が、音を立てて床に滴り落ちた。
「好きでもない男の赤ん坊を、あたいは産んだのさ。確かにあの時、あたいを助けてくれたのはあの男さ! 自分の好きな男の赤ん坊なら、片時だって傍を離れずおっぱいだって飲ませるだろう……」
「でも、助けられたとはいえ、あたいはあの男の言いなりだったんだよ! 決して自由になんかならかったのよ!」
アーニャはそう言うと、ベッドに突っ伏し嗚咽し始めた。私はアーニャの肩を抱き、こう言った。
「アーニャ、もう少し眠った方がいい。 お前は疲れているんだ」
アーニャが言った。
「イワンさん、お乳が張って痛いの! 吸って下さる?」
私はアーニャの乳房を吸い続けた。不思議な味がした、今までに経験したことのない気持ちだった。そしてその時、私は感じたのだ。そう!
――私はこれからずっと、この女と一緒に暮らしていくのかもしれない――と、ふとそんな気がしたのだ。 
アーニャが涙に咽びながら言った。
「あなた……、あたいを離さないで」

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朝の告白 その16

私はアーニャの乳房から唇を離し、そんな不埒な考えを打ち消すように言った。
「アーニャ、ドゥエルは私の父が生きている頃からよく支えてくれた。彼は真面目で優しい男だ。この私ときたら、お前も知っての通り父譲りの冷血漢で、情けなんてこれっぽっちも持っていない男さ。たとえお前が私と一緒に居ようとしても、きっとすぐに嫌になって逃げ出したくなるさ。それに結婚するという事は、お互いに我慢することも必要なものなんだよ」
アーニャが、私の目を覗き込むようにして言った。
「でもイワンさん、あなたは、こうして私をスタヴォロポリからわざわざ迎えにきてくれたわ! それにあなたはね……」
アーニャは、いたずらっぽく微笑んだ。
「本当はとても優しい人よ! あたいは知っているの。目を見ればわかるわ! 私が頼んだ時、嫌な顔一つせず、おっぱいを飲んでくれたでしょ? あたいは、あなたのことが好きよ……」
そうだ、そうだった! それまで私は、生まれてこのかた一度だって他人から、優しいなどと言われたことは無かったのだ。しかし、おお! 何ということだろう! あの時アーニャから優しい人と言われ、なぜか十五の時から久しく会っていない母の横顔が忽然と思い出されたのだった。とても不思議な気持ちだった。私はこう思った。
――もし今までに誰かが私に対して立った一言でも優しいと言ってくれていたならば、私はおそらくあんな無謀な賭けをすることも無かったに違いない――
――そう! ひょっとすると私はそれまで生きてきて、誰かからのこの言葉を待ち続けていたのだ。誰かがこう言ってくれるのを待ち続けてきたのだ――と。
私はアーニャに言った。
「私は他人から優しいと言われたのは生まれて初めてだ。私が優しい人間だって? とんでもない、それはお前の大きな誤解さ」
アーニャが笑い転げながら言った。
「優しい人で無ければ、ここまでわがままな女に付き合ってくれるわけないわ! あたいにはわかるのよ! 適当に遊んで楽しんだら、あとはそそくさと帰る。男なんて、皆そんなもんだわ」
そして、アーニャは尚も笑いながら言った。
「お人よしにも程があるよ! こんなあばずれ女に付き合って一晩に四十万ルーブルも摩っちまうなんてさ! でも、あたいはあんたが好き!」
私は言った。
「アーニャ、お前に聞きたいことがある」
「わかっているわ。なぜ、こうなったのかって、そして、どうしてこんな暮らしができているのかって、そうでしょ?」
「その通りさ。話してくれるかい?」
「そう、約束だったわね……」
それからアーニャは、自分がなぜスタヴォロポリを離れ、ここネヴィンノムィスクでカジノに入り浸る生活になったのかを語り始めた。
「あたいは、あの男と一緒になる前、バクチに狂った親父から逃れようとして、家を飛び出したことがあるの。親父はまだ十六だったあたいを、バクチの金を作る為に売り飛ばそうとしたのよ」
「そのことを知って、あたいは着のみ着のままで、ここネヴィンノムィスクの近くまで歩いて逃げてきたの。そして何も食べずに歩き続け、クバン川のほとりで倒れてしまった。その時にあたいを助けてくれたのが、あのルドルフ少尉の部隊だったのよ」
「彼は私に優しくしてくれたわ。あの人がネヴィンノムィスクに居る間、私たちは夢のような生活を送ったの。毎晩ドレスを選んでダンスに出かけたわ……。その頃よ、カジノに行くことを覚えたのも。でも、そんな幸せも長く続かなかったわ……」
「あの人には妻子が居るの。サンクトペテルブルグ(注二二)の出身で、今もそこに家がある筈よ。彼の家系はもともとずっと貴族だった。彼の父は内務省の下士官で、そんなこともあってペテルベルグの士官学校を卒業すると、彼はあんな歳で将校になったのよ」
「彼の赴任先はずっとここネヴィンノムィスクの駐屯地だったから、彼がここに居る間、私はずっと公然の内妻だったというわけよ。これでわかったでしょ? 私がここでこうやって遊んでいられるわけが……」

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朝の告白 その17

私はアーニャに尋ねた。
「それなら、お前はどうしてドゥエルと一緒になんかなったんだ?」
アーニャが続けた。
「彼が居る間は良かったわ。でも彼が軍に戻りしばらくすると、親父がやって来たの。私から金をせびり取る為にね……。そして、巻き上げれるだけの金を巻き上げ全てバクチで使い果たすと、親父は私をまた地獄の家に連れ戻したわ。そしてあたいは、すぐにピャチゴルスクへ無理やり連れて行かれ、客を取らされた」
「あの男はあたいが体を売って稼いだ金を一文残らずバクチで使い果たし、それからしばらくしてから、酔っ払って馬車にはねられて死んだわ」
アーニャはそこまで話すと立ち上がり、グラスにウオッカを注ぐと半分近くまで飲んだ。 私は、アーニャに尋ねた。
「ドゥエルとは、どこで知り合ったんだね?」
「あの男はピャチゴルスクで、あたいの客だった。あの頃は優しくて、来るたびにいろいろと私の話を聞いてくれたわ。そのうちにあたいも、この男とならちゃんと生きていけるかもしれないと思い出した……。幸せに結婚できるのなら、この男と一緒になってもいいと思ったのよ。そして、彼についてスタヴォロポリへ行き正式に彼と結婚したの。あとはあなたが知ってのとおりだわ」
私は改めてアーニャの顔を見た、そしてこう思った。
――この、どう見ても十八くらいにしか見えない女に、何という過酷な人生の試練があったのだろう! 私はこの歳まで生きてきて、苦労と名の付く物は殆ど経験してこなかった――
アーニャが言った。
「最初はね、あたいもいい奥さんになろうと努力したわ。でもすぐに、それが無駄なことだということに気が付いたのよ」
私はアーニャに言った。
「どうしてだ? お前たち一家は、何不自由無く暮らしていたじゃないか? それに、ドゥエルは良く気がつくし面倒見の良い男だ。お前と一緒になってからは一切遊びもせずに、真面目にやっているじゃないか!」
アーニャは悲しそうな声で呟いた。
「昨夜もあなたには話したわ。なぜだかわからない! でもあたいは……。あたいが居て世話を焼かないと無茶苦茶になりそうな男でないと、一緒に暮らしていけないんだよ!」
私は言った。
「アーニャ、一つ聞こう! ではこの私も、お前が居ないと破滅する、そんな男だというのかね?」
アーニャが笑いながら言った。
「その通りさ! 危なくって、見てられやしない。だから、あたいはあんたを選んだのさ! そんなあんたが好きなんだよ」
重ね合わされたその唇は、かすかに苦く塩の味がした。私はあどけなさが残る若い女が、それまで生きてきて遭遇した苦難の大きさを知り愕然とした。私はアーニャの肩を抱きながら言った。
「お前は親分肌なんだよ。だから自分で何もかも取り仕切らないと、気がすまないのさ。でも女というものは、そもそも男に仕えて家庭を守り、そして幸せを築いていくものなんだ」
アーニャが言った。
「じゃあ、あたいの母はどうなるのさ? あんなろくでもない男の面倒を二十年以上見続けてきたんだよ。今でも覚えているさ! あの男の機嫌が良いのはバクチに勝って帰ってきた晩だけで、負けた時はそりゃ酷いものだった……」
「あの男は帰ってきたら、真っ先に金をせびった。金が無いとわかるとあたいたちに容赦なく手を出した。そんな男に仕えて、何が幸せなもんか!」
「それでも母は文句一つ言わずに、辛抱してあたいたちを女手一つで育てたのさ。確かに、あたいが売り飛ばされそうになった時は、半狂乱になって抵抗したけど……」
アーニャはそこで一息つき、残りのウオッカを飲み干した。そして言った。
「でもドゥエルと一緒になってわかったのよ。優しくはされるが、ここにあたいの居る場所は無いって……。そして思ったのよ。こんなまま年老いていくのは絶対に嫌だって。もっとも、何不自由なく暮らしてきたあんたにはわからないだろうけどさ……」
私が言った。
「それで、農場を逃げ出したってわけか?」
「そうよ、なけなしの金を持ってここネヴィンノムィスクへとやってきた。勿論、ルドルフは喜んでくれたわ。そうして、また以前のような生活をすることになったのよ。毎晩カジノに行って遊び、お呼びがかかれば彼の官舎へ招かれて彼に抱かれる、そんな毎日よ……」
彼女が上目遣いで私の目を見た。
「あたいが必要なお金は、全部彼が出してくれているのよ。だからあたいは何不自由なく、ここで遊んでいられるわ。ねぇ、彼とのこと妬いているの?」
――妬いている―― この言葉を聞いて、私は驚いた。そしてあの時確かに気づいたのだ。
――そうだ、確かに今の私はこの女の相手の軍人に嫉妬している。我ながら勝手な男だ、妻子が有りながら――
アーニャが言った。
「でもね、あたいはルドルフとずっと付き合っていく気はないわ。母がもう弱ってきているし、近いうちにまたスタヴォロポリに帰らねばならないと思っているのよ」
それから彼女は私の目をじっと見つめながら言った。
「ねぇ、イワンさん。あたい、あんたに付いてスタヴォロポリに帰ってもいい。ただし一つお願いが有るのよ……」
私は驚いた。アーニャがあっさりと帰る事を了解したからだ。
「願い? それはどんな願いなんだね?」
アーニャが言った。
「あなたには、奥さんも子供もいるわ。だから無理は言いたくないの。でも……、たまにはあたいの家に来て、あたいを抱いて欲しいの! そして、あの男の所へは絶対に戻さないで!」
私はアーニャの言葉を、苦々しい思いで聞いていた。アーニャの言うとおりにすれば、御者との約束を反故にしなければならなかったからだ。御者との約束では、たとえアーニャをスタヴォロポリに連れ戻そうとも、彼女がドゥエルの元へ戻らないならば、一エーカーの麦畑を手渡さなければならなかったからね――。
その時、私はふと時計を見た。もう午後三時を回ろうとしていた。召使のマスラクに宿を取らさねばならなかった。私は部屋にアーニャを残し、ホテルの外に出た。複雑な心境だった。
――このままスタヴォロポリに戻って、私はアーニャとの関係を続けるのか? ドゥエルにはどう話したものだろう。いやそれどころか、このままではあの御者との賭けに負けてしまうのだ。そうすれば、一エーカーという土地をくれてやらねばならないのだ――
私は歩きながら悩み続けた。
――御者との賭けに負けるわけにはいかない、さりとてアーニャをドゥエルの元へ戻すことは不可能だろう。一体、どうしたものか――
そしてふと思った。 
――そればかりか、私は昨夜の勝負で四十万ルーブルもの大金を失っているのだ。これも、なんとかせねばならない――
用を済まし私が部屋に戻ると、アーニャが言った。
「さあ!カジノへ行こうよ。もういい時間じゃない!」
私はアーニャに言った。
「お前はそれにしても、バクチが好きな女だな! 今日も行こうというのかい?」
アーニャが笑い出した。私はそれを見て言った。
「アーニャ、何がおかしい!」
アーニャが笑い転げながら言った。
「だって、おかしいじゃない! 今日、あそこに一番行きたい客はあんたの筈じゃないの」

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朝の告白 その18

アーニャは続けた。
「四十万ルーブルも一晩で摩っちまったんだよ! 誰だって、カジノが開けば取り戻しに行きたいと思う筈よ」
図星だった。その時の私にとって一番問題だったのは、アーニャを連れ戻すことでも、御者との賭けに勝つことでも無かった。昨夜失った四十万ルーブルを、まず今夜取り戻そうと、そう心の中で決めていたのだ。そして、その金を取り戻してからアーニャを連れ帰り、御者との賭けに勝つことを考えようとしていたのだ。
愚かな選択だった。いや、それは愚かというよりも無知といった方が良かったのかもしれない。そう! あの時の私は、賭博で失った金を賭博で取り戻すことができると考えていたのだ。賭けることで失った金が二度と戻っては来ないということを、私は最後の日が来るまで全く知らなかった――。こうして、私は六つ目の過ちを犯した。
それから私たちは着替えを済ますことにした。私は黒いビロードの上着に帽子をかぶり、アーニャは昨夜の薄いピンクのドレスに代えて、濃いワインレッドのドレスを選んだ。私とアーニャは近くのダンスホースに出かけた。しばらくの間そこで踊りながら夜までの時間を費やそうと思ったのさ。
私たちはショパンの曲に合わせ、マズルカ(注二三)を踊ったりして過ごしたが、アーニャは農夫の女房とは思えぬほど、軽やかに身を翻し上手に踊った。
彼女は、さながらダンスホールの花のようだった。着こなしも、振る舞いも、会釈の仕方も、そしてダンスの上手さも、全て社交界で立派に通じるほどだった。きっと何も知らない社交界の人々は、彼女を愛すべき一人の乙女として見守っていたに違いない。
アーニャが大きくステップを踏みながら叫んだ。
「あたい、今まで生きてきて、今が一番幸せかもしれないわ!」
私は彼女の耳元で、笑いながら囁いた。
「それは結構だが、その「あたい」と言うのを何とかしないかね? お前の素性がまるわかりだ!」
今考えてみれば、アーニャと踊ったあの時が、私の人生の中で一番幸せなひと時だったのかも知れない。私は今も覚えている、そして決して忘れることはないだろう! あのダンスホールの中のざわめきを。シャンデリアの黄色い炎の美しさを。そこで口にしたワインの甘く饒舌な香りを。そして煌きながら踊るアーニャの美しい肢体を――。
そして六曲目のワルツが終わった時、私たちは心地よく疲れていた。ダンスホールを後にして、寄り添って石畳の道を下り、ホテル・ドゥレステンへと向かった。夕日がクバン川に映えて美しかった、カフカス山脈から湧き出る大河は、あたり一面のひまわり畑と相俟って黄金に染まり、早くも夏の終わりを告げようとしていた。
そう、この時私は知らなかったのだ! 私がそれから、どれほど大きな人生の過ちを犯そうとしていたのか。そして、自分がその日からあのネヴィンノムィスクで冬を迎えることになろうとは、全く知る由もなかったのだ――。 

私たちはホテル・ドゥレステンに着くと、早速地下への階段を下りた。カジノはもう既に客で半分くらいは埋まっており、私たちは昨夜と同じテーブルについた。アーニャが耳元でそっと言った。
「ゆうべと同じディーラーだわ!」
私たちは喉の渇きを癒すためにビールを注文し、ボーイから交換したチップを受け取った。痩せて目の鋭いディーラーが、鮮やかな手つきでカードをシャッフルした。そして、ゆっくりとカードを配った。こうして、私にとって三度目となるカジノの夜が始まった。
最初、私は運に恵まれていた。瞬く間に、目の前にチップの山が出来た、席について僅か三十分も経っていなかった。その時、アーニャが溜め息混じりに言った。

「凄い。もう五十万ルーブルは勝ちよ!」
そう! この時既に、私は目的を達成していたのだ。昨日の負けを取り戻すことだけならば、この時点で既に十分足りていた。しかし私は賭けることをやめようとしなかった。私は七つ目の過ちを犯してしまったのだ。
――こうして、私は破滅への道を歩むことになった――

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朝の告白 その19

ここまで話し終えると、老人は少し疲れたように椅子にもたれ、口を半ば開いたままで目を閉じた。青ざめたまま、アレクセイが信じられないといった表情で言った。
「イワン・オフロフスキーさん、お疲れなのでしょう? 少しお休みになってはいかがでしょうか?」
老人が目を閉じたまま答えた。
「アレクセイ、大丈夫だ……」
老人は語り続けた。 

――そして、それきり私は自分が賭けで失った金を取り戻せることは二度と無かった――
それから私は、その日のうちに殆どの金を使い果たし、明日の路銀にも事欠く有様となった。私は、妻のリザに手紙を書いた。そして、召使のマスラクの宿へ行き、彼にこう伝えた。
「マスラク! お前は明日の朝一番にここを発ち、スタヴォロポリへ戻るんだ。そして、この封書をリザに届けて欲しい。そして、次の馬車をすぐに寄こすように伝えてくれ」
その時の私の頭の中にあったのは、とにかく今までに失った金を取り戻すことだけだった。そして私は、その日たった一度だけ訪れたチャンスを逃したことを、限りなく悔やんでいたのだ。私は心の中で、願っていた。そして祈っていた。いや! 信じていたのかもしれない。失った金をいつか取り戻すことができるのだと。
――しかしながら、それは叶えられなかった。あの時以来、今日に至るまで叶えられはしなかった……。そして、私は全てを失った。賭博とは、そういったものなのさ――
少し咳き込んだ後、しゃがれた声で老人は話し続けた。 アレクセイは、老人の言葉を一言たりとも聞き逃すまいと、集中して話に聞き入った。老人が続けた。
――それから数回に渡り、私は召使に命じリザに金策の手紙を持ち帰らせた。いつしか季節は変わり、ネヴィンノムィスクの秋は終わり、冬が訪れようとしていた――
そんなある日、いくら待てども馬車はやって来なかった。三日遅れでやってきた馬車には私の着替えと共に、次のような手紙が添えられていた。

愛するあなた

私は今、悲しんでいます。

ここスタヴォロポリでも、あなたの噂を
時々耳にします。

若い女と共にカジノにいるという
そんな噂を聞き、私は悲壮な思いでいます。

それでも、私はあなたを信じています
笑って、ここへ帰ってきてくれると
そう信じて待っています。

今回は、おっしゃっただけのお金を
用意することは、もうできませんでした。

蓄えが尽きたのです。
牛を四頭売りました。
これがそのお金です……。

お体に気をつけて。そして
一刻も早くお帰りになることを
心から祈っています。

子供たちもあなたのことを
心配しているわ。

リザ

私はリザからのこの手紙を読んで、胸が締め付けられる思いだった。ただし、そう思ったのも最初だけのことだった。彼女からの手紙の中には、少し汚れたルーブル紙幣が丁寧に折り重ねられて入っていた。情けない話だが、あの時私は ――三十万ルーブルしか、入っていない――と、真っ先に思ったのさ。
私は、その金を送ってくれた人が、どれほどの苦労をしてそれを工面して送ってくれたかということさえ考えなかった。単にその金を使って、どうやって賭けるべきかだけを考えていた。あの時、私の頭の中に有ったのは、もはや賭け続けることだけだったのだ。

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朝の告白 その20

三十万ルーブルという金は、四回の勝負で消し飛んだ 私はじきに無一文になり、再びリザに向けて手紙を書いた。

愛するリザへ

心配をかけて申し訳ない。

どうしても今、まとまった
金が必要なんだ。

工面するのに、苦労もあるだろう
でも何とかして欲しい。

金が無いと、何もできない
今はそんな状況なんだよ。

落ち着いたら、すぐに戻るから
何とか頼む。

無理を言ってすまない。

イワン

私は完全に狂っていた。どんなに妻に、そして家族に、申し訳ないと思う気持ちが湧きあがろうと、決してそれは賭けを止める力とならなかった。頭の中ではどんなに、今自分のしていることが無茶苦茶なことだとわかっていても、そんな考えは賭博の魅力の前では全く無力だった。私は妻に嘘まで言って金策させ、自分は働くこともせずに朝から晩までアーニャと一緒に遊び呆けていた。そして金が届くと、いそいそとカジノへ出かけて有り金残らず使い果たす、そんな堕落した生活を毎日続けていたのだ。
そのうちにアーニャも、愛人だったルドルフから愛想を尽かされ、全ての援助を打ち切られることになった。そもそもの原因は彼女の金遣いの荒さだが、他方では彼に新しい女が出来たことも原因だったらしい。
私たちはホテルの部屋を引き払って近くに木賃宿を捜し、いかにも狭い一部屋で一緒に生活することとなった。そのうちに私とアーニャは着飾ることもしなくなり、食事さえ満足に摂らず過ごすようになった。アーニャの煌びやかなドレスや持ち物は、全て賭博の賭け金となり消え失せていった。
そして、私がリザに最後の金策の手紙を託したその八日後に、次の馬車がやってきた。 御者台の上に見覚えのある顔を見て、私は驚き叫んだ。
――ドゥエルだ、ドゥエルがやって来たのだ!――
馬の手綱を引くその男は、まさしくドゥエルだった。ドゥエルは私の顔を見るなり駆け寄り、そして足元で跪いた。
「旦那様……、よくぞご無事で! あっしの為にこんなことになっちまって、本当に申し訳ございません」
ドゥエルは人目を気にようともせず、地面に頭をこすりつけて私に詫びた。彼の目から大粒の涙が溢れ出た。私は言った。
「ドゥエル、もういいんだ。頭を上げなさい。それよりあちらの方はどんな様子かね?」
ドゥエルが答えた。
「旦那様、奥様がとても心配しておいでです。今回はこれを預かって参りました」
そう言って、ドゥエルはリザからの包みを手渡した。
「それと……、奥様は牧場の一部とトウモロコシ畑を手放すと、そうおっしゃられています。」
それから召使は、心配で張り裂けそうな自らの胸の内を語り始めた。
「旦那様、一体何があったんでございますか? あの夜、あっしがとんでもないお願いを口にしたが為に、こんなことになっちまうなんて……。何があったのか、どうぞおっしゃってくださいまし! もうこれ以上、旦那様と奥様にご迷惑をかけるわけにはいきません!」
私は言った。
「ドゥエル、心配いらないよ。お前のせいで帰るのが遅くなっているのではないんだ」
ドゥエルが言った。
「旦那様、女房のアンナは、今日これからあっしの手で掴まえて連れ戻します。ですから、もうこれ以上奥様に心配をかけないでくださいまし」
私はドゥエルの目を見つめ、言った。
「いいか! ドゥエル、よく聞くんだ……。アーニャは、もうお前の元へは帰らないと言っている」
ドゥエルが悲痛な叫び声をあげた。
「だ……旦那様。それじゃ、あの男に一エーカーの麦畑をくれてやることになりますだ!それはなりません! 絶対にそれだけはお止めくださいまし!」
  それからドゥエルは肩を落として呟いた。
「それに、あいつが帰って来ないとなると、赤ん坊をこれからどうしたものか……」
 私は言った。
「ドゥエルよ、私は何も必ずそうなると言っているわけではないんだ。アーニャに今お前がいくら諭しても無駄だ。もうしばらく待つんだ。ここは私に任せておけ!」
ドゥエルにそう言ってはみたものの、既に結果は見えていた。もうどうにもならないことを、私は知っていたのだ。そして口には出さなかったが、ただひたすら自分の女房を失った哀れな召使に対し罪悪感で胸がいっぱいになった。理由はともあれ私は、あの男の女房を寝取ったのだ。私は悲痛な面持ちで召使を故郷へと送り出した。それは粉雪が舞い、いつもより早い冬の訪れを感じさせる晴れた午後のことだった。
私はドゥエルを送り出すと、リザからの封書を開いた。封書を開けると同時に、何か光る物が転がり落ちた。私はそれを拾い上げると、そっと目を凝らしてみた。それはまさしく、私がリザに送ったリングだった。
鮮やかに、私がリザと知り合い、そして彼女に求婚した時のことが想い出された。あの時、若く美しかったリザの面影が脳裏に浮かんだ。私がリザにあの指輪を送ったのは、彼女が十八の時だったからね。私は、そのリングをポケットに仕舞い込むと、彼女の手紙を読み始めた。

愛するあなた

今日で、私があなたのことを
あなたと呼ぶのは終わりだわ。

今日、私は一つの決意をしました。
子供たちを連れて
故郷に帰ることにしたのです。

これ以上あなたの言うとおりにすれば、
農場の小作人や召使たちが
暮らしていけなくなるからです。

そして……、
子供たちも、私も、
このままでは生きていけません。

最後に、空いていたトウモロコシ畑と
牧場の半分を売りました。

もうこれ以上のことをして、
お金を作ることはできません。

あなたが引き継いできたこの農場を
まだこの上、勝手に処分することなど
私には到底出来ませんもの……。

お許し下さい。
そして、どうぞご無事で。

最後に……、

今日まで愛してくださったことを
心から感謝しています。

さようなら

リザ

私はその手紙を読み終えたとき、涙が止まらなかった。 
――おお、リザ! 私はお前に何と酷いことをしたのだろう!―― 私はこう思って、嘆き悲しんだ。でも、もう止まることなどできなかった。あの時リザが血の滲む思いをして送ってきてくれた金を使って、負けた金を取り戻そうと思っていたのだ。取り戻すまで、故郷には帰ることができないと思っていたのだ。そして私は心の中でそう叫びながらも、実際は今宵勝負することができる喜びを密かに感じていた。そこまで、私は堕落していたのだ。

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