ギャンブル依存症克服はストーリーを読んで!

ギャンブル依存症を題材にした小説はいろいろと有りますが、ここでは読むだけでギャンブル依存症を克服し、防止までしちゃおうって寸法です。 きっとあなたのお役に立てると思います、是非お読み下さいね!

『朝の告白』

朝の告白 その1

『朝の告白』(あしたのこくはく)

 作  タカビー(奥井 隆)

「あんた、今日はたいそう長いお出かけだったね」
そう言いながら老婆が入ってきたのは、もう昼も終わり、そろそろ陽が翳りだそうという時刻だった。
「ほう、もうこんな時間かね。そろそろお暇しないと……」
老人はそう言って微笑むと、テーブルの脇に置かれた杖に手を伸ばした。
長身で頑丈そうなその体には不釣合いな杖――。それをしっかりと握り締めると、老人は主人に一言礼を言い、老婆に付き添われて帰っていった。
老婆が老人を支えながら寄り添って歩いているその姿は、誰が見ても微笑ましい光景だった。その後ろ姿は、どこにでも居そうな仲睦まじい老夫婦そのものだった。
――知らない者は、彼らのことを平凡で幸せな老夫婦だと思うことだろう。だがあの二人の背中の上に、いったい今までどれほどの悲しみが、苦難が、そして絶望があっただろう! このことを知らない者はおそらくそう思うことだろう――
そんなことを考えながらドゥエル・ビルヴァンスキーは窓にもたれ、先程まで目の前の椅子に座っていた老人のことを思い出していた。
やがて夕闇が訪れた。スタヴロポリ(注一)の夏はたいそう短い。そのせっかちな夕暮れに急かされ、人々は家に戻って夕餉(ゆうげ 注二)の支度にいそしむのだ。
ドゥエル・ビルヴァンスキーは何かを思い出したように窓から離れ、書斎のドアを開けた。夕暮れ時になると落ち着かなくなるのが、彼の常だった。その習慣は、彼の身の上に由来していたのである。彼は書斎のソファに倒れこむと、小さなグラスへウオッカを半分ぐらい注ぎ込んだ。そしてそれを一気に飲み干すと、手の甲をしみじみと眺めた。
「俺も歳をとったもんだ。もうこれは老人の手だ……」
彼は、そう呟くと目を閉じた。若かった頃の想い出が脳裏に浮かんでは消えた。それから彼は一つの出来事を思い出しながら、深く大きく溜息をついた。あたりの農場を照らす夕日は一層赤さを増し、やがて赤に代わり黒一色の世界が訪れようとしていた。そのままドゥエル・ビルヴァンスキーは眠りに落ちた。

老人が訪ねてきたのは、その日の午後遅くだった。クローニャはそのことを主に伝えると彼を家の中に招きいれ、早速お茶の準備にとりかかった。程なくアレクセイが階段を下りてきた。
彼と老人は抱き合って再会を喜んだ。アレクセイは牧場での牛の育ち具合や馬の様子などを、嬉しそうに老人に報告した。そんな話が一通り終わると、老人が言った。
「あんたは、良い跡取りだ。噂はちょくちょく聞いている。自慢の息子だってこともな。私もかつては地主の倅だった。本来なら兄が跡継ぎだったが、出来が悪かったこともあって家を放り出されたんだ。それで結局は私が親父の後を継ぐことになった。もっとも私だって今はこのとおり、落ちぶれてしまったがね……」
老人はそこまで一息に話し終えると、アレクセイ・ビルヴァンスキーに微笑んだ。アレクセイが緊張した面持ちで話しかけた。
「落ちぶれたなど、とんでもないですよ! イワン・オフロフスキーさん、あなたを尊敬していない人など、このあたりには誰一人として居ませんからね」
「挨拶が遅れたが、今日はあんたに話があってやってきたんだ。少し時間を取らせてもらっても、かまわないかね?」
「ええ、勿論ですとも! でも、わざわざお見えにならなくても、私の方からお伺いしましたものを。それと……、あいにく今日、父は遅くならないと戻ってこないのです」
「いや、いいんだ。あんた一人で大丈夫さ……」
 そう言うと老人は少し安堵の色を見せ、話し続けた。
「私はあと幾許も生きられない。知っているんだ。でもその前に、あんたには必ず話さないといけないことがある。だから、今日ここに来たのさ……」
そこまで話すと老人は少し咳き込んだ、屈強な体にもかかわらず病魔が体を蝕んでいるのだろう。アレクセイがブランデーを勧めると、老人はそれでなくウオッカを所望した。
「早いもんだな。あんなにちっぽけな赤ん坊だったあんたが、今では立派な牧場の跡取りだとはな」
老人はそう言うとアレクセイの手を取り、微笑んだ。
「勿体無いお言葉です。イワン・オフロフスキーさん」
アレクセイは、老人の前で会釈するとにっこり微笑み、その手にキスをした。老人は言った。
「まずは、私が幼かった頃のことから話そう。おふくろは、兄を溺愛して甘やかせた。そのせいで、兄はろくでもない人間になってしまった。仕事もせずバクチにふけり、女遊びにウオッカさ。とどのつまりは、勘当され放り出されちまった。私が一五の時さ、おふくろも一緒にな」
「お母様も一緒にですか。でも何故なんです?」
「おふくろが兄をダメな男にしたことを、親父は激怒したのさ。そしてもう一つ、兄を勘当すると言った時に、おふくろは親父に徹底して反対した。結果として、二人揃って家を出ることになったというわけさ。だから私は一五の時から親父一人に育てられた……」
「実際、私は学校での成績も良かったし、親父はとことん私に期待した。親父は彼流で私を一人前にする為の教育を施したんだ。使用人の扱い方、召使の躾、金の使い方、礼儀作法、私は何もかも全て親父流に教え込まれたのさ。私は完璧にそれらを覚え、親父の期待に応えた。でもたった一つ……」
 老人はここまで一気に話すと、息をのみ込んだ。アレクセイが、不思議そうな面持ちで尋ねた。
「たった一つ?」
「たった一つ教えて貰えなかったのは、人の気持ちを思いやるということさ」

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注釈はすべて最終回にまとめてありますので、どうぞよろしくお願いします。

朝の告白 その2

「親父が教えたことといえば、例えばこういったもんさ!」
──女を選ぶ時はできるだけ若いのを選べ。それと従順そうな女をな。でないと後々、お前が放り出すことになる──
──遊ぶ時は遊べ。でも決して溺れるな。女は特にそうだ、遊ぶだけ遊んですぐに捨てて忘れろ──
──召使に情けは無用だ。使用人はとことん使え。できなければどっさり罰を与えろ。褒美は五回に一回でいい──
──金を使う時は、どういった意味で使うのか良く考えろ。それと、自分が使うべき金かどうかもとことん考えぬくんだ。自分の金は使わないに越したことがない──
「こんなことばかり教え込まれて私は育ったんだ」
老人の顔が少し朱を帯びている。アレクセイは、普段から温厚で誰からも慕われているこの老人が突然話し始めた言葉を聞き、不思議な気分だった。
老人は続けた。
「――お前は一流だ、お前は人より優れている、そう信じろ! 俺の後を継げるのはお前しか居ないんだ!―― いつも親父は私にこういった言葉を繰り返し聞かせた。でも実際そうだった。全てが親父の思い通りに運び、私自身もそれが当たり前だと思っていたのさ」
「イワンさん……」
驚いた様子でアレクセイが口を開いた。
「イワンさん、あなたは優しく誰からも尊敬され愛されるお方です。そんなあなたから、こういったお話を聞くなんて、私にはとても信じられません」
「いいや、そうじゃない。現に私は親父が一線を退いてからも、何人の農夫を泣かせ何人の召使に暇を出したことかわからないさ。不作を理由に地代を払わない小作人を、情け容赦なく何人追い出したか知れやしない」
「ある時、娘の病気を理由に、地代の支払いを待ってくれと言った女がいた。その女に私は言った。――地代が払えないならさっさとここを去れ。薬代に事欠くのなら、お前が自分の体を売れば良かろう――と」
「程なくその女の娘は死んだ。女はピャチゴルスク(注三)に流れて売春婦になり、やがて気が狂って死んだ。私はそんな男だったのさ……。そうやって下の者から搾り取ることばかり考えて生きてきたんだ」
老人はそう呟くと、うつろな目でアレクセイを見つめた。
――悲しそうな目だ。目に勢いが無い。本当にこの老人はさっき自分で言ったように、あまり長くないのかもしれない――
そうアレクセイは感じた。
「イワン・オフロフスキーさん、きっとあなたは今日、お疲れなんでしょう。馬車で家まで送らせていただきますよ。帰って休まれたらいかがでしょうか?」
「いいや大丈夫だ。アレクセイ、気を使わせてすまないね……。ところで、あんたの赤ちゃんは元気かね?」
「はい、おかげさまでちゃんと育っています。今クローニャが、上であやしている最中ですよ」
「そうかい、そいつは良かった」
「そうだった、あの時あんたはまだ生まれたばかりの赤ん坊だった。ちょうど私も今のあんたくらいの歳だった。ちょうどあの頃、私はたった一つの出来事で人生を半分棒に振ってしまった。このいきさつを、今日はあんたに話そうと思ってやってきたのさ」
老人はそう喋り終わると、グラスに注がれたウオッカに手を伸ばし、深い息を吐いた。
――私の農園は順調だった。小作が八十と少し、召使が四人いた。ちょっとした財産家で通っていたものさ。私が三一歳の時に親父は一線を退き、程なく他界した。その後は私が全て農園を取り仕切って来たんだ――
そこまで話すと、突然、老人の握り締めた拳が震え始めた。瞬く間に彼の目は涙で溢れ、滴が床に落ちた。老人はしゃがれた声で、悲痛な叫び声をあげた。
「アレクセイ……、アレクセイ・ビルヴァンスキーよ……。今日私は真実を君に告げ、そして謝罪する為ここに来たのだ!」

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朝の告白 その3

老人は語り始めた。
――クリミアでの忌まわしい戦争(注四)が起こる二年前のことだ。あれはちょうどトウモロコシの収穫も終わろうという、夏の夜のことだった――

あの日私は客人を自宅に招いて、久しぶりの晩餐を共にしていた。食事も終わり、客人たちと豆の作柄がどうの、今年の麦の出来ばえはどうの、といった話題に花が咲いていた時だった。突然、誰かが居間のドアをノックした。
「だんな様……、失礼してよろしいでしょうか?」
ノックの主は一人の召使だった。召使は私の顔を見ると深々と頭を垂れ、おずおずと一歩前に進み出た。そして突然の訪問を詫びると客人に向かって一礼し、申し訳なさそうにこう切り出した。
「だんな様……」
「だんな様、あっしの女房は最近家に帰らねぇ! ずっと、ネヴィンノムィスク(注五)のホテルで過ごしているに違いないんです。そして朝から晩まで、喰う時と眠る時以外はバクチを打っているに決まっているんでさ。畑も家の仕事もほったらかし、赤ん坊のミルクだって、ここんところずっと隣家のかかあに頼みっぱなしなんです……。旦那様、あっしはこれから先……、これから先どうやって暮らしていけばよろしいんで?」
彼はそう言うと、悲しそうな目で私を見つめた。私は言った。
「お前は今までからずっと、そうやって駄目な女房を甘やかせてきたんだ。そんなことが原因で、お前の家がどうなろうと俺の知ったことじゃない。どうにもならない女房なら、とっとと別れりゃいいさ。暇が欲しければいつでも言え」
いつもよく働き、従順な召使の目に涙が溢れた。彼が正に絶望の底に沈んでいることは、誰が見ても明らかだった。
召使が懇願するように叫んだ。
「だんな様、それはあんまりでさ。このままだと、あっしばかりか、赤ん坊までどうなっちまうかわからねぇんです。何とかして下せぇませ。後生ですから……。お願いします。お願いします。お慈悲を……」
彼がそこまで話し終えたところで、ずっと私の隣に座り、それまで黙りこくっていた客人が突然口を開いた。
「とんでもねぇことですよ! こんなくだらないこと一つで、こうも簡単に幸せに生きていく権利を毟り取られるのだったら……、」
彼は一気にそこまで話すと、他の客人たちの顔をくるりと見渡し、大袈裟な身振りで話し続けた。
「あっしだったら、今すぐにでもこの世とおさらばしたい、そう思いますよ」
「イワン・オフロフスキーさん、なぜバクチにうつつを抜かしている人間はいつだってこうなんでしょうかねぇ? なぜ家族を放り出して、くだらねぇことに大枚をはたくのか、あっしには到底理解できないんで。実際この男は可哀想なもんだ。自分の女房がこんな始末じゃね」
そう言うと、赤い服を着た御者(注六)は旨そうにウオッカを飲み干し、少し上目遣いで私のほうをちらりと見た。私は彼にこう言ってやった。
「例えばだな、ヴィロンスキーよ。あんたはいい馬を持っているだろう? どんなに遠い道のりの旅でも頼りになる逞しい奴さ。あいつが或る日突然いなくなったとしたら……、あんたならどうする?」
御者が答えた。
「そりゃあ、決まってまさぁ! あれがぶらぶらして居そうな場所へ捜しに行く。そしてそこにいなけりゃ、とっとと諦めて次の馬を探す。それだけです」
私は御者に言ってやった。
「そうさ、だからこそあんたはバクチ打ちにならないんだ。バクチ打ちを養うことも有り得ない……」
私はそこまで話すと、召使の方を見ながら言った。
「ところが世間には、そういった馬を気にかけて夜も眠れない奴がたくさんいるのさ。だからこそ、娑婆にはバクチ打ちがごちゃまんと居るんだよ」
御者が言った。
「イワン・オフロフスキーさん、確かにあなたのおっしゃるとおりでさ。この男はこれまでにきっと女房を甘やかせて来たに違ぇねぇ。だからこそ今、女房がバクチ狂いになって困り果ててるんでさ。でも、赤ん坊に飲ませるミルクの心配もしなきゃならねえ。本当に困っているからこそ、今こうしてここに来ているんじゃないですか」
 それから彼は意味ありげににやりと笑った。そして、もう一度客人たちの方をぐるりと見まわしながらこう言った。
「ここは少し助けてやったらどうなんです?」
 私は召使の方を見た。彼は黙ったままで俯くばかりだった。私は彼に向かって言った。
「よしわかった。お前に一日だけ、暇をくれてやろう。その間に、女房を連れて帰ってくるんだ!」
 すると、しばらくして召使が申し訳なさそうにこう切り出した。
「恐れながらだんな様……、あっしが行こうが誰を行かせようが、あの女はとんと帰ろうとしないんです。これは一体なんとしたものか……」
 その時、また御者が口を開いた。
「イワン・オフロフスキーさん、バクチに狂った奴てぇのは、ちょっとやそっとじゃ連れ戻せませんぜ。誰かを差し向けたところで、無駄飯を食わせるだけでしょうよ。ここは、やっぱ主が行かねぇとね。まあ、それでも連れ戻せるかどうか……」
彼は首を傾げながら、そう言った。だが私は、頑としてこの提案を受けようとはしなかった。
「そんな有様じゃ、たとえ私が連れ戻してきた所でまた元の木阿弥さ。女房が戻ってもすぐにまた甘やかせて、同じことを繰り返すだけだ……。そもそも、バクチに狂う奴は一生直らないし、甘やかせる者は一生甘やかせるもんだ。そんな連中のことをいちいち気にかけていたら、人を使うことなどできるわけがなかろう」
私がこの言葉を話し終えると同時に、突然御者が言い放った。
「イワン・オフロフスキーさん、あなたは意気地なしだ」

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朝の告白 その4

場に一瞬静寂が訪れた。更に御者は話し続けた。
「ねえ旦那、あなたはそもそもあの男の女房を説き伏せて、連れ帰るってことができる人じゃねえ。バクチに狂っている人間をちゃんと説得して、連れて帰るってことに自信が無いんでさ……。そうでなけりゃ、誰だって行くもんだ。よほど情けの無い人でない限りね」
――意気地なし…… それはまあ良かろう、この男の言いそうなことだ──
そう思いながらも私は、御者の次の言葉を苦々しく感じていた。
――情けが無い──
そう! 私は御者のこの一言に言葉を失ったのだ。
──確かに、この私に今まで情けなどあっただろうか? そう、人を思いやることなど、かつてあっただろうか?――
私はしばらくの間、御者のこの言葉を噛み締めていた。しばしの沈黙の後、隣町の地主であるボルドフ・ミハイロヴィッチが口を開いた。
「ヴィロンスキーさん、さっきからあなたの言い方はひどすぎる。言を慎むべきです」
彼は顔色を変え、御者に食ってかかった。
「この結末をどうつけようが、それは主のイワン・オフロフスキーさんがお決めになることです。だいいち我々はこんなことについて、何一つ責任を取れっこないのですからね!」
私は、召使の方を見た。彼はただうなだれているようにしか見えなかった。おそらく、客人の前で主人の醜態を見せてしまったことを後悔していたのだろう。
──自分のせいでこうなってしまった。俺はおそらく暇を出されるに決まっている──
そう思っていたに違いない。御者が言った。
「違ぇねぇ! そのとおりだ。いやいや、あっしはついつい言い過ぎちまった。旦那、申し訳ねえ。気を悪くしないでくだせぇよ」
その言葉とは裏腹に、御者は悪びれる様子を見せなかった。それから私は再び召使の方を見た、彼は相変わらず俯いたままだった。私は強い口調で御者に言った。
「お前に一エーカー(注七)の麦畑をくれてやる……。ただし、お前が俺との賭けに勝ったらの話だ!」
その席にいた者たちが一斉にどよめいた。私は、叫びとも嘆息とも聞こえるどよめきが収まるのを待って話し続けた。
「俺がもし、こいつの女房を連れ戻せなかったら、お前に一エーカーの麦畑をくれてやろう。その代わり、もしちゃんと連れ戻って元の鞘に納まったら、その時は今ここに居る客人と私全員の前で、床に頭をこすり付けて謝ってもらうぞ」
御者が笑いながら答えた。
「旦那、いやイワン・オフロフスキーさん。危ない賭けはやらねぇこった。あっしも悪気があって言ったわけでもねぇんだし……」
私は御者の言葉を遮り、こう言った。
「受けるのか? それとも受けないのか?」
御者が答えた。
「それじゃ、お受けしましょう。もしも旦那が勝ったらその時は、おっしゃる通りにいたしゃしょう。それと……、その女房が二度とバクチに手を出さないと誓うのなら、どうぞあっしの馬屋で一番良い馬を選んで下さいまし、一頭差し上げましょう」
突然召使が叫んだ。
「だんな様! どうぞ無茶な賭けはお止めくだせえまし。あっしの家の為に、だんな様にそんなご迷惑をかけるわけにはいきません。お願いでございます、どうぞお止めくださいまし!」
私は召使の方を見た。そしてその時、彼の目に涙が溜まっているのをはっきりと見た。それまでこの男は、ずっと私の言うことに背こうともせず、真面目に仕え仕事をし続けてきた。そればかりか彼は、自分の事が一番大切な時に、主人である私のことを一番に気遣っていたのだ。
私は胸が熱くなった。涙まで溜めて私を圧し止めようとしている、そんな召使の姿を見るのは生まれて初めてだった。 
私は召使に命じた。
「明日の朝早くに立つとしよう。手短に支度をしてくれ。農場の後始末は、ポローニャとその家族に任せろ、手際よくやるんだ」
私は、御者に言った。
「ヴィロンスキーよ……。私にとって今日は面白い一日になった。礼を言うよ。ただし、この借りはきっちりと返させていただく」
御者は皮肉たっぷりの口調で答えた。
「イワン・オフロフスキーさん、とんでもねえ。礼にはおよびません」
それから彼はいつものように、上目遣いで笑いながら言った。
「それよりも、どうぞご無事で」
それから私は客人たちに彼らを不愉快にさせたことを詫び、召使にもう一本ウオッカを持ってくるように命じた。しばらくして客人たちが先程のように農場の話や世間話を始めると、私は明日早朝から出かけることを理由に席を立ち、後の世話は召使に任せることにした。
二階に上がり寝室に入ると、静かな寝息をたてて妻のリザが眠っていた。子供たちも、乳母にあやされて眠りについたようだった。私は寝室の壁にもたれながら、窓の外を眺めた。少し欠けて青い色をした月が明るく農場を照らしていた。秋の訪れが近かった。
美しい月だったことを覚えている――。だがあの時の私は、それがあの部屋で見る最後の月になろうとは思っても見なかったのだ。

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朝の告白 その5

次の日の朝私は馬車に乗り、ネヴィンノムィスクへと向かった。ネヴィンノムィスクはスタヴロポリから馬車で半日ほどの道のり。もともと商人の町だが、あの頃はこのあたりのちょっとした社交場として知られていたものだ。私は召使の女房であるアンナが、ネヴィンノムィスクに有るホテル・ドゥレステンに居ると聞いていたのだ。
ネヴィンノムィスクの街に入ると、一面のポプラ並木が夕日を浴びて光っていた。街路樹の茂る通りを右に曲がると、もうそこは石畳が敷かれ行きかう人の数も多くなっていた。
そのあたりで出会うのは、バーやダンスホールへ向かう者ばかりで、男は皆正装し女たちは着飾っていた。昼は商人でごったがえす町も、着いた頃にはもうすっかりと夜の佇まいをみせていた。
私は、馬の手綱を引く召使のイリヤーに向かって声をかけた。
「イリヤー、もうすぐ近くまで来たぞ、気をつけろ」
「はい、かしこまりました。だんな様」
ホテル・ドゥレステンは街の中心部よりも少し南にあった。当時あのあたりは、明るいうちは仕立屋や、鍛冶屋などが立ち並び、露天で物を売る人々が集まる市場が出ている場所だった。私はホテルの前で馬車を止めて召使にそこで待つように命じ、真っ先にクロークに行って主任らしい男に尋ねた。
「アンナ・ビルヴァンスカナという女が、ここに泊まっているはずだ。会わせてもらえないだろうか?」
クロークの男が答えた。
「はいお客様、残念ながらあのお方は、もうここにはお泊りになっていらっしゃいません」
「いつここを引き払ったんだね?」
「五日前に、出て行かれました」
「あの女に会いに来たんだ。どうすれば会えるか君は知らないかね?」
「申し訳ございません。私はそういったことはとんと存じませんもので……」
クロークの男は少し申し訳なさそうな手振りを見せ、訝しげに私の顔を見た。私は一枚の百ルーブル札を男に差し出した。そしてその男の目を見つめながら言った。
「どうかね、教えてもらえないだろうか?」
男は愛想良く微笑むと、紙幣をポケットに仕舞い込んだ。
「今も多分、地下のカジノにいらっしゃいますよ。よろしければ、これからご案内いたしますが……」
男はそう言うと、奥の階段へと私を案内した。古い造りの階段は所々絨毯が剥げ、足を置くと軋む音がした。
――賭博場特有のざわめきと煙草の匂い、薄暗い光の中に並んでいるカード用のテーブル、そして部屋の真ん中に置かれた古ぼけたルーレット―― その一室は、ホテルにあるカジノにしては、全く飾りげの無い殺風景な所だった。
私は不思議に思った。
――本当にアンナはこんな所に居るのだろうか?――
それでも席はほぼ満席で、ディーラー(注八)が忙しそうに客の応対をしていた。その時私は、そんな客の中に混じって一人の若い女が座っているのに気づいた。高く積まれたチップの山が彼女の前にあった。一つの勝負が終わり、ディーラーが彼女の前にまた一山のチップを積み上げた。程なく次の勝負が始まり、彼女が叫んだ。
「オンリ(注九)よ、今回は降りるわ」
甲高く、聞き覚えのある声だった。丸くまとめた髪、上品そうなシルクの手袋、少し胸元の開いたピンクのドレス――。私は自分の目を疑った。しかし、彼女はまさしくアンナ・ビルヴァンスカナその人だった。おそらくその声を聞かなければ、私はその女がアンナだと気付かなかっただろう。それほどまでに、彼女はすっかりと変わってしまっていた。
草むしりをして節くれだった手を白く上品な手袋で覆い、きれいに化粧した横顔は、どう見ても赤ん坊を抱えた召使の女房には見えなかった。忙しい家事や子守に追われ、その合間を見て小作の手伝いに出る女がこんな場所に出入りしているとは、誰も気づかなかったに違いない。
私が彼女のテーブルに歩み寄ると、客の一人が声をかけた。
「やあ、これは良いところに来られましたね! 私は今ちょうど、抜けようとしていた所だったんですよ」
私はその男の声を無視してアンナの横に行き、彼女の耳元でこう囁いた。
「私はイワン・オフロフスキーだ。 アンナ・ビルヴァンスカナさんだね?」
女は驚いた表情で私を見上げ、そして低い声で言った。
「だんな様! なぜ、こんな所へ?」
「お前を連れ戻しに来たんだよ.さあ帰ろう! ドゥエルが心配して待っている。赤ん坊にやるミルクにもこと欠いて、とても困っている。さあ、荷物をまとめろ! 明日の朝早くに馬車で出れば、夕方までには帰れるだろう」
しかしながら次にアンナが言った言葉は、私が全く予想できないものだった。
「旦那様……、悪いのですが、私はもうあそこに戻りません。今日はこのままお引取りくださいまし」

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朝の告白 その6

――ドゥエル!?――
アレクセイはその名前を聞くと 、驚きで目を見張った。老人はアレクセイの顔がみるみる青ざめていくのを、じっと眺めていた。そして彼が何か言おうとするのを制し、語り続けた。
――私は驚き、そして呆れた。主人がわざわざ半日もかけて、馬車で迎えに来てやったのだ! それにもかかわらず、あの女は言いつけに背いて帰らないと告げ、自分にその場を立ち去れと言い放ったのだ!――
私は女を指さし、その目を睨みつけながら言った。
「アンナ! もう一度だけ言おう! 今すぐ帰る準備をするんだ。これは主人の命令だと思え!」
女は、つっけんどんに答えた。
「だんな様、あたいに暇を出してくれませんか? それと、お帰りになったらあの女々しい男に、お前の女房は行方知れずになったと……、そうお伝えくださいまし」
この言葉を聞き、私は背筋が凍りついた。その時ふと思い出したのは、前の晩に御者が首を傾げながら言ったことだった。
――まあ、それでも連れ戻せるかどうか―― 
御者は首をひねりながら、確かにそう言った。おまけに私はあの御者に、女を連れ戻せなかったら一エーカーの麦畑をくれてやると約束してしまったのだ。しかしそんなことは、これっぽっちも話せる筈などなかった。さりとて、あの場で無理やり女を連れて帰ることもできなかっただろう。私は途方にくれ、そして思い悩んでいた。すると、女がいつものように甲高い声で囁いた。
「だんなさま、いえイワンさん……。そんなことより、あたいと一緒にひと勝負しません? 今日は調子が良いのよ。食事だって後でご馳走するわ!」
「冗談じゃない! 私はバクチをやらないんだ。私の兄がなぜ家を追い出されたのか、お前だって知っている筈だろう?」
女が甘い声で囁いた。
「世の中にはねぇ、賭ける人と賭けることを嗜める人のどちらかしかいないのよ……。あたいは、やって楽しむ方の人生を取るわ!」
女はそう言うと、ディーラーに目配せしてチップを手渡した。私がこの部屋に入って来てから、まだ五分と経っていなかった。
――たったこれだけの時間しか過ぎていないのに、この女はもう賭け始めようとしている―― 私は驚きのあまり、次の言葉が出なかった。私は女の横顔を眺めながら、しばし唖然としていた。
ディーラーがカードをシャッフルし、女の手許に五枚のカードが配られた。そして親がドボン(注一〇)して女が歓声を上げた。
「ほらね! またあたいの勝ちよ!」
子供のような声をあげ、アンナがはしゃいだ。茶色い瞳がキラキラと輝いた。
「イワンさん、あたいと一緒に楽しもうよ! あなたはあたいの福の神よ、だから今夜はこんなに勝てるんだわ! これから、あたいをアーニャって呼んで!」
「さあ、ここに座りなよ! 飲み物はウオッカ? それともバリザム(注十一)がいいの? スコッチだってここには置いて有るわ」
アーニャは上機嫌にそう言って、私を横に座らせた。
――それにしても……、何という愚かな賭けをしてしまったものか!―― 私はそう思い、髪を掻きむしった。一エーカーの麦畑があれば、悠々と一つの家族が暮らしていけるだろう。私は賭けに負けたら、それをあの御者にくれてやると言ってしまったのだ。
私はどうするべきか思い悩んでいた。是が非でもこの女を説得して、明朝にスタヴロポリまで連れ帰るしか自分に道は無かったからだ。だが答えは見つからなかった。見つかる筈もなかった。もはやあの時点で私は大きな間違いを一つ犯していたのだ。
その後もアーニャは賭け続けた。私は席を立った。表に出て、連れてきた若い召使のイリャーに、宿を取らせねばならなかった。私は思案に暮れ、彼に翌朝迎えに来るよう命じた。あの時の私は、その日のうちにあの女を説得して、翌朝一緒にスタヴロポリへ連れ帰ることができると思っていたのだ……。

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朝の告白 その7

私が席に戻っても、アーニャはまだ賭け続けていた。
――一体、この女はいつまでやり続けるのだろう?―― 呆れながらも私は、どうすればこの女を連れ戻せたものかと思いを巡らせていた。
突然、アーニャが言った。
「止め時ね。おしまいにするわ!」
アーニャは貯め込んだチップを金に替え、ボーイに百ルーブル紙幣一枚をチップとしてくれてやり、席を立った。
「今日は、二万ルーブルと少し勝ったわ」
アーニャは嬉しそうにそう言うと、いたずらっぽく笑った。それまで私はアーニャを畑でしか見たことがなかったが、近くで見るとかなり童顔の女だった。あの時のアーニャはどう見ても、一八くらいにしか見えなかったからね。
栗色の髪と大きな目、細い首、そしてクルクルといたずらっぽく動く茶色の瞳―― まさかそんな女がカジノに出入りしているとは、誰も思わなかっただろう。
――それにしても、農夫の女房がなぜバクチなど覚えたか?―― 私の頭の中はその疑問で埋めつくされていた。
私とアーニャはボーイに見送られてカジノを後にすると、ホテルの外へと出た。アーニャが言った。
「イワンさん、今日の泊り先はもうお決めになって?」
「いいや、まださ」
「それよりもアーニャ、何だってお前はこんなバクチを覚えたんだ? お前にこんなことを教えたのは、一体どこの誰なんだ?」
アーニャはその質問に答えず言った。
「イワンさん、それよりも食事にしない? あたいが奢るわ。近くにラムのおいしい店があるのよ」
私たちは近くにあるレストランに着いた。ラムが売り物というだけあって、羊の顔の大きな看板が掲げてあった。こぢんまりとした作りで、入るとすぐにピロシキ(注一二)の良い香りが漂ってきた。席に着くとアーニャは慣れた様子でウェイターを呼び、ラムチョップ(注十三)と黒パン、そしてビールを注文した。彼女が言った。
「イワンさん、お飲み物は何がお好きなの?」
私は黒ビールを注文し、ウェイターにメニューを持って来させると、ザクースカ(注一四)のメニューからキャビアとカブの酢漬けを注文した。
アーニャがいたずらっぽい目で笑いながら言った。
「驚いたでしょ? でも、ここの生活が気に入っているの」
私は苛立っていた。彼女から聞き出したいことも、言ってやらねばならないことも、実際山のようにあったからだ。私はまくし立てる様に彼女に言った。
「まず、なんでお前がこんなくだらないバクチなんか覚えたのか、そのことから聞こう!」
「教えてくれた人がいたのよ。賭けていると、ワクワクするわ。それと……、体の奥が熱くなって来るのよ」
「一体誰がお前に、こんなことを教えたんだ? それに、いつの間にどこで覚えた? そんな時間が……」
そこまで話した所で、突然アーニャが私の言葉を遮った。そして少し寂しそうな顔をして言った。
「明日の夜に全て話すわ……。今夜はゆっくり楽しみましょうよ」
その言葉を聞いて、私は絶望した。
――明日の夜だと? とんでもない、とんでもないことだ──
私は気が気ではなかった。
――明日になっても私が帰らないということになれば、きっとあの御者は腹を抱えて笑うに違いない。そればかりではない。昨夜あの場所にいた者は皆、これはどうしたものかと思うことだろう。それに農園のことも気がかりだ。そうなれば、妻のリザに手紙を書かねばなるまい――
私はそういったことをあれこれと考え、頭を悩ませていた。そして繰り返しこう思い、自らの愚かさを嘆いていたのだ。――馬鹿な賭けをしたものだ──と。

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朝の告白 その8

食事が済み、私たちは食後のマデラ酒(注一五)を注文した。
アーニャが言った。
「あたいはね、本当はあの男と一緒になる気なんか無かったの。あたいの親父はバクチに狂って商売を投げ出し、何もかも滅茶苦茶にしたわ。親父が店をやめた後、母はあたしたち姉妹を養う為に行商へ出たの。でも、母が苦労して稼いだお金を最後の一コペイカ(注一六)までも奪い取って、親父はルーレットに通ったわ。そんな酷い家からあたいを救い出してくれたのが、あの男だったのよ。でも、あの男と一緒になって気がついたの。どうしてもあたいはあの家に居たくないって……」
私は言った。
「なぜだ? ドゥエルは真面目な男じゃないか。酒もやらないし女癖も悪くない。バクチだってやるような男じゃない」
「だから、嫌になったのよ! あたいの親父はね、それは酷い男だったわ、でも……」
アーニャは、そう言いながら目を伏せた。私は尋ねた。
「でも?」
アーニャが悲しそうに答えた。
「それぐらい、付きっ切りで心配しなけりゃならない男でないと、あたいは駄目なのよ!」
それから私たちはレストランの外に出た。まだ夏だというのに吹く風は肌寒かった。少し前から小雨が降っているらしく、ガス灯に映る街路樹が霞んでいた。
アーニャが嬉しそうな声で言った。
「イワンさん、今日は楽しかったわ! こんな素敵な夜は久しぶりよ! あたい、近くのホテルに泊まっているの。送ってくださる?」
私はアーニャを、ホテルまで送り届けることにした。雨は少し強まったようだったが、私は傘もささずアーニャに寄り添ってポプラ並木の小径を歩き続けた。
彼女の泊まるホテルまで雨に打たれながら歩いた。あの濡れた石畳の道を、私は今でもよく覚えている。なぜだかそれは、私にとってとてつもなく長い道のりに思えたからだ。無理もないことだよ。今考えれば、あの時の私はまさに人生の岐路にいたというわけさ。 
ホテルに着くと、彼女が言った。
「少し前からここにいるの。洒落たホテルでしょ?」
私は驚いた。なぜなら彼女が泊まっているというホテルは、当時ネヴィンノムィスクではかなり高級なホテルだったからね。
別れ際に、私はアーニャに言った。
「アーニャ! 考え直してくれないか、明日の朝迎えに来る。それまでに、良く考えておくんだ」
アーニャはそれに答えず言った。
「ありがとう、イワンさん! とても楽しかったわ。おやすみなさい」
そして、彼女は微笑むと客室への階段に足をかけた。私は彼女を見送るとホテルの玄関に向かった。その時ふと足元を見ると、玄関のドアの前に一枚のハンカチーフが落ちていた。アーニャが使っていた物だった。
私はとっさにそれを拾うとアーニャの後を追った。私が階段を上りきった時、彼女は立ち止まり、そして振り返った。アーニャは、妖しく微笑むと言った。
「すぐそこの部屋に居るの」
アーニャは鍵を開けて私を部屋に招き入れた。それから、後ろ手にドアを閉めながら言った。
「だんな……、いえイワンさん。あたい本当はとても嬉しかったんだ。わざわざ迎えに来てくれてさ。だからね……」
突然彼女は、私の頬を両手で挟みながら言った。
「あたいを抱いて……」
私はあのとき感じたのだ。そう! 何かわからないが、とても大きな物を自分が失おうとしていることを。
私は彼女を抱きしめ、そして言った。
「私は馬鹿だ……」
彼女は私を抱きしめながら言った。
「あたいは、お馬鹿さんが好きよ」

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朝の告白 その9

その夜、私とアーニャは何度も愛し合った。それはあたかも、出会うべくして出合ったそんな幸福な男女が当然の如く得るであろう、愛の交歓そのものだったのだ。
翌朝になり、召使が馬車を引いて迎えに現れた。私はアーニャに言った。
「さあ、アーニャ、私と一緒に帰ろう! お前の今後の身の振り方は、スタヴォロポリに帰ってから考えるとしょう」
アーニャは言った。
「イワンさん、あたい、夕べあなたに約束したわ。今夜全て話すって」
そして、彼女は私の目を覗き込むようにして言った。
「どうして、今すぐに帰らなきゃいけないの?」
私は言葉に詰まってしまった。御者との賭けのことを彼女に話すことなど、絶対に許されなかったからだ。
――そんな話を聞けば、おそらくアーニャは私のことを笑い飛ばすことだろう。大恥をかくのが関の山だ―― あの時、私はそう思っていたのだ。
彼女が続けた。
「それに……、あたいはあなたが好きなのよ。どうしてもあたいを連れ戻したい気持ちはよくわかるわ。でも、もう少しここで一緒に過ごしたいのよ!」
アーニャはそう言うと私の胸に飛び込み、私を強く抱きしめた、栗色の髪が甘く香った。私は考えていた。――今日一日のことではないか! そうすれば、彼女も気が済んで私と一緒にスタヴロポリに帰るに違いない──と。
そして私は自分自身に、所詮、今宵一夜だけのことだと言い聞かせていた。私はアーニャに言った。
「わかったよ。じゃあもう一日延ばすことにしよう。その代わり、お前は明日一緒に帰ると約束してくれるね?」
アーニャが言った。
「嬉しいわ! もう一日ここで一緒に過ごせるなんて。」

それから私は、妻のリザに宛てて手紙を書いた。

愛するリザへ

用事が少し増えてしまった。
帰りが遅れるが、心配しないでほしい。

農場のことは引き続き、
ポローニャの一家に任せるように。

それと、私の身の回りの物一式を
他の者に預け、すぐに届けさせてくれ。

イワン

私はホテルの外に出て召使のトーリャに手紙を託すと、すぐにスタヴォロポリに向けて発つよう命じた。
「トーリャ、スタヴォロポリに戻ったらお前は休み、誰か他の者をすぐにここへ寄こしてくれ。さあ、行くんだ」
トーリャが言った。
「かしこまりました、旦那様」
 私は召使の乗った馬車を見送ると部屋に戻り、アーニャに言った。
「明日の昼くらいには、次の馬車が来る。それまで、お前は自由にするがいい。ただし、明日は必ず一緒に帰ってくれるね?」
アーニャが答えた。
「約束するわ。だんなさま!」
彼女はそう言うといたずらっぽく微笑み、私にしがみ付き唇を重ねた。

それから私たちは、つかの間の観光を楽しんだ。馬車に揺られてクバン川(注十七)まで出ると、遠くにカフカス山脈(注十八)が見えた。あの頃、あのあたりは一面のひまわり畑だった。大ゼレンチュク川(注一九)が合流するあたりにはブドウ畑が広がり、収穫を終えた農夫たちが休憩している姿も見られたものさ。
私たちは馬車を降りてもぎたてのぶどうを味わったり、川岸に降りてみたりしながら時間を潰した。それからネヴィンノムィスクの街まで戻って、少し遅い昼食を取り、ゆっくりとお茶を楽しんだ。そして約束の夜が訪れ、私は堪らずアーニャに尋ねた。
「さあ、アーニャ! そろそろお前の本当の話を聞かせてくれないか?」
アーニャは少しうつむきながら、寂しそうに言った。
「イワンさん、今日がここに居られる最後の夜なのよ! 一緒に楽しんでからでも良いでしょう?」
私は迂闊にも、最後の希望くらい叶えてやってもよいだろうと考えた。だからアーニャに、こう尋ねた。
「それでは、これからどこに行こうというんだね?」
アーニャが目を大きく見開いて、嬉しそうな声で言った。
「勿論、カジノに行くのよ!」
今考えると、あの時私は既に三つ目の過ちを犯していたのだ。

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朝の告白 その10

アーニャと共に私はホテル・ドゥレステンへと向かった。地下のカジノへ行くと、昨日と同じボーイが歩み寄ってきた。アーニャはボーイに千ルーブル札を数枚渡してチップに交換させると、ふと気づいたように振り向いた。
「ねえ、あなたはやらないの? 今日は最後の夜よ、少しは楽しんだらいいのに」
私は言った。
「いいや! 私はバクチをやらないんだ。楽しむなら、お前一人で楽しむがいい」
その夜、彼女は調子が悪かった。先に交換したチップはすぐに無くなり、彼女はすぐさまボーイを呼んでルーブル札の束を渡してチップに替えて来させた。そして、新たに交換したチップが半分ほどに減ったところで、私は言った。
「アーニャ、昨日のようにうまく勝てるかどうかわからない。バクチというものはそういったものさ……」
そして、こう付け加えた。
「だからこそ、私はバクチをやらないんだ。真面目に仕事をしてこそ、幸せな人生を送れるってもんさ」
私がそう言った瞬間、アーニャの顔が青ざめた。彼女は鬱陶しそうに言った。
「勝負はまだこれからよ! あれぐらい取り返すのは、本当にわけないんだからさ!」
それからも彼女はひたすら賭け続けた。そしてアーニャは二回の勝負に勝っただけで、残りの勝負全てに負けた。二回目に交換したチップもやがて無くなり、彼女は再びボーイを呼んだ。
「交換してきて頂戴! それと、ウオッカを貰うわ」
私はアーニャに言った。
「もう、そろそろやめにしたらどうかね? 駄目な時は駄目なものだ。こんな時は、取り戻そうとして一層怪我を大きくするだけだよ」
その言葉を聞いた途端、アーニャの眉間に縦の筋が入った。アーニャは吐き捨てるように言った。
「あんたは賭けないの? やってみればいいじゃない! 賭けもしないで、横から言うだけなら……」
彼女は深呼吸してから、低い声で続けた。
「それは意気地なしのすることよ!」
――意気地なしだと!!――
私の頭の中に怒りの炎が燃え滾った。
――そもそも、あの御者の「意気地なし」という言葉を聞いて、こうやってこの女を連れ戻しに来たのだ。それを、この女までもが私のことを意気地なしと罵るのか!?――
私は立ち上がり、自分の上着の内ポケットからルーブル札の束を掴み出し、アーニャの前に叩きつけた。
「さあ、アーニャ、賭けようじゃないか! お前の好きなように賭けるがいい!!」
アーニャが言った。
「賭けるのは、あたいじゃない! あんたさ! それっぽっちの金も賭けれないなんて、何が男さね!」
アーニャがボーイを呼んだ。
「この札を交換して来ておくれ。ウオッカをもう一杯!」
そしてアーニャは立ち去ろうとするボーイを呼び止め、こう叫んだ。
「それと、この子猫ちゃんにもウオッカを一杯やって頂戴!」
私は自分の耳を疑った。
――しかしこれがこの女の正体なのだ―― そう思って手を震わせた。
そう! ここで私は四つ目の過ちを犯してしまったのだ。もう止まれる筈などなかった。賭けるより仕方がなかったのだ――。
アーニャが注文したウオッカを一息に飲み干すと、私は一塊のチップをディーラーに手渡した。やがてカードが配られた。生まれて初めて手にしたカードは、あまりにも薄く軽いものだった。私はその時、途方もなく大きな罪悪感に襲われた。私はこう考えた。
――俺はこんな薄っぺらい紙切れごときに、農夫が、そして馬子が、ひと月働いても得ることができないほどの大金を賭けて、勝負しょうとしている――と。
とても考えられないことだった。きちがい沙汰だと思った。それでも、私はアーニャの横で賭け続けたのである。それから私は、手にしたチップをたった三回の勝負で全て使い果たし、六万ルーブルもの金を失ってしまった。
アーニャが言った。
「勝負はこれからなのよ! 今やめれば、取り返すチャンスを逃すことになるわ。さあ! もうひと勝負するのよ!」
私は考えていた。
――失ってしまった金は仕方のないことだ。諦めればいい……。さりとてこのままにしておけば、自分は完全な負け犬になる。そんな自分に、この女がスタヴォロポリまで付いて帰るとはとても思えない。そうなれば、一エーカーの麦畑はあの御者の物になるのだ――と。
そしてそう思いながらも私は、もうひと勝負し、もし今までに失った金を今夜中に取り戻せるなら、全てはうまくいく筈だとさえ思い始めていた。それから私はボーイを呼んで、懐から荒々しくルーブル札の塊を掴み出しこう叫んだ。
「これを、替えてくれないか」

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