私には、まだ一つの仕事が残されていた。それは、あの夜の賭けに負けた代償として、御者のヴィロンスキーに一エーカーの麦畑をくれてやることだった。私はアーニャの部屋を訪れると、彼女に言った。
「アーニャ、私はこれから出かける。しばらくの間、待っていてくれないか?」
アーニャが尋ねた。
「あなた、一体今からどこまで行くの? もうじき日が暮れるじゃないの?」
私は言った。
「もう一つ、私にはしなければならない仕事が残っているんだよ。御者のヴィロンスキーの所へ行かねばならないんだ」
アーニャが叫んだ。
「あたいを連れ戻せなかったから、あの御者に麦畑をくれてやる。そういうことなのね?」
「その通りだ、私は約束を守らねばならない……」
次にアーニャが言った言葉を聞いて、私は驚いた。意外なことを彼女が言い出したからだ。アーニャは私の目を覗き込むように見つめて、こう言った。
「あたいも一緒に行っていい?」
私はアーニャに言った。
「アーニャ、もうこうなってしまった限りは、どうにもならないことなんだよ。潔くないことをすれば、一生の恥をかくことになる。それに、あいつだってただでは済まさないだろう」
アーニャは笑い飛ばした。
「勿論、そんなことは承知の上さ! あたいは、あなたが一体どんな男とそんな賭けをしたのか、その相手の顔を一目拝んでみたいだけ。ただ、それだけなのさ!」
こうして私とアーニャは、ヴィロンスキーの元へと向かった。彼の家に着き扉をノックすると、初老の男が我々を出迎えた。
「私はイワン・オフロフスキーだ。主のヴィロンスキーに用が有ってやって来た。取り次いで貰えないだろうか?」
「あいにく親方は今、馬屋に行っておいでです。さしつかえなければ、ご案内させていただきますが」
「よろしく頼むよ、悪いが案内してくれないか?」
男は馬屋まで我々を案内した。馬屋の中は冬だというのに生暖かく、何頭もの馬が繋がれて白い息を吐きながら飼葉を食んでいた。彼は入り口から一歩進み、大声で叫んだ。
「親方さま! 客人がお見えです!」
程なく、ヴィロンスキーが現れた。彼は太った体を揺すりながら我々の前に歩み寄ると言った。
「旦那、手紙は確かに読ませていただきましたぜ。気の毒なこった! でも、悪く思わねぇでくだせぇやしよ。そもそもこの賭けは旦那から言い出したんだから……」
ヴィロンスキーはこう言うと、アーニャの方をちらりと見た。彼は笑いながら言った。
「これはまた、上等な別嬪さんじゃありませんか。それもお若い! これじゃあ無理もねえ」
私は言った。
「ヴィロンスキーよ、あんたに渡す麦畑はドゥエルに言って用意させてあるから、春になってから好きに処分するがいい」
御者は言った。
「旦那、それはどうもありがとうごぜぇます。まあ、あっしはそもそも馬家主だから、戴いたものの、これからどうしたもんか。でも、ありがたく頂戴いたしますよ!」
御者は上機嫌に話し続けた。
「旦那、だからあの時にあっしは言ったんだ。旦那はこの女を連れて帰れる人じゃねぇってね。バクチに狂っている女を連れ戻す方法なんざ、本当はわけないことなんでさ!」 
 ヴィロンスキーはアーニャの方をちらりと見ると、一息ついて喋り続けた。
「旦那、やり方を間違っちゃいけねえ。横面を二回三回張り飛ばし、無理やりでも引きずって来ねえと、こんな女がいうことを聞くわけがねぇ!」
私は御者の言う言葉を聞き続けた。御者はますます息を荒くして、得意げに喋り続けた。
「旦那にそんなことができるわけがねぇ! そもそも女に優しいというか、甘すぎたってことさ!」
御者は、得意げな顔でそう言うと声を上げて笑った。そして、次に少し真面目な顔をしてこう呟いた。
「あっしだって実のところ、昔バクチでえらい目に遭ったことがある。だから今は一切やらねぇし、勿論やることだって許さねぇ! 旦那も、少しはおわかりになってでしょう! どうにも怖いもんです、バクチってもんはね……」
それまで私は知らなかった。あの男も、かつては賭博者だったのだ。
その時突然、アーニャが私の横から一歩進み出て、御者の前に立った。彼女は、御者に向かって話し始めた。
「ヴィロンスキーさん、あなたの言うとおりだわ。この人は優しい人よ。だからあたいを連れ戻すことができなかった……」
「だからあなたとの賭けに負けた。そのとおりよ。それと……、今日あたいが何の為にここへ一緒に付いて来たのか、あなたはおわかり?」
ヴィロンスキーは大笑いして言った。
「どうせ、こんな大それた勝負をした相手をひと目見ておきたかった、ってことなんでしょう! あんたは実に面白い女だ!」
アーニャが言った。
「そう! その通りよ、図星だわ。それともう一つ目的があるの……」
「もう一つ……?」
ヴィロンスキーは不思議そうな顔をした。アーニャは、笑いながら言った。
「馬を一頭貰うわ。約束どおり」

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