リザの部屋を出ると、居間の方から重々しいピアノの音が聞こえてきた。私が部屋に入ると、ミーシャがその小さな体を大きく動かし、ベートーベンの『悲愴』を演奏していた。
――少し見ないうちに、上手になったものだ!――
そう感じて私は窓際のソファにもたれ、しばしの間彼女の演奏を聴き入った。その時、ミーシャの鍵盤を叩く手が止まった。彼女は私の姿に気がつくと、すぐさま椅子から飛び降りて私に駆け寄った。そしてその小さな目には、みるみる涙の粒が溜まり始めた。彼女は、震えた声で言った。
「おとうさま! どこに行ってらしたの! あんまり長い間お帰りにならないから……、わたしもおかあさまだって、本当にしんぱいしてたの!」
ミーシャはそう言って、私に抱きつき頬を寄せて甘えた。私は我が娘を抱きしめた。
「心配したのかい? 少し仕事が長引いただけだからね。それとミーシャ、しばらく見ないうちに上手になったじゃないか! もう一度聞かせてくれないか?」
彼女は再びピアノを弾き始めた。私はその悲痛なソナタの調べを聴きながら考えていた。
――この子も、来週にはリザと共に、彼女の故郷であるエルブルス山の麓まで行くことになるのだ。この子には、何と話したら良いものか……。それに、アレクセイは乳飲み子だ。今、リザは体調を崩している。これも、どうしたものだろう?――と。
子供たちと別れることは、身を切るよりも辛いことだった。しかし、選択は許されなかった。私が犯した罪とは、それほどまでに重いものだったからだ。
それから私は、次男のアレクセイに会う為にマリアの元を訪れた。まもなく一歳になるアレクセイは、乳母のマリアが面倒をみることになっていた。半年振りに見る我が子は、驚くほど大きく成長していた。マリアは私の顔を見ると、微笑んだ。
「旦那様、お帰りなさいませ。お坊ちゃんは、ほれ、この通り随分と大きくなられました。最近はミルクの量も多くなって、そりゃ元気にお育ちですよ!」
私は久しぶりに我が子を抱くと、その顔を覗き込んだ。亜麻色の髪と茶色の瞳はリザそっくりだったよ。目もしっかり見えるようだった。その小さな目で私の姿を懸命に追いかける姿は、実に可愛らしいものだった。そうして我が子を抱いていると、ドゥエルがやってきて言った。
「旦那様、奥様がお呼びでございます」
私がリザの部屋に行くと、彼女はもうベッドから起き上がり背もたれに体をあずけていた。私は言った。
「少しはましになったようだね」
彼女が言った。
「ええ、あれからかなり調子が良くなったのよ。お医者様も随分と良くなったって……」
「それは良い! 私もほっとしたよ」
リザは快復しているようだった。その様子を見て、私も少しは気が楽になった。リザが体調を崩したのは、すべて私の責任だったからね……。 
リザが言った。
「あなたに一つお願いがあるのよ! 私、ドゥエルとアーニャとの赤ちゃんを、引き取ろうと思っているの」
私は驚いた。そして驚きつつも、自分が置き去りにしたまま忘れ去っていた大切なことに気付き愕然とした。確かにドゥエルにああ言ったものの、私はドゥエルの子供のことまで考えていなかったのだ。
リザは話し続けた。
「そもそもこうなったのも、何か縁が有ったのよ。きっと神様の思し召しなんだわ。私、あの子を引き取って大切に育てるわ。だって母親が居ないんですもの、可愛そうだわ」
確かにそうだった、ドゥエルの息子はまだ乳飲み子だったが、生まれてすぐアーニャが家を出た為に名前さえ決まっていなかったからね。
――こうして皮肉なことに、私が居なくなったものの、彼女の家族として一人の男の子が加わることとなった。そしてドゥエルの息子は、彼女によりミハエルと名づけられた――

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