翌日の朝、久しぶりに空は晴れ渡った。農園の中を通ると、牛を飼う家はこぞって牛を牛舎の外に出し、日光浴をさせていた。いつ見てものどかな田園風景だった。冬とはいえ、ここスタヴォロポリはまだまだ恵まれた場所だとふと考えた。それから私は自分にとって最後となる農園を見て歩いたのさ。
飼葉(かいば:注二六)の香り、馬の蹄の音、農夫たちの質素な朝餉(あさげ:注二七)のざわめき。そして地平線へと続く白い雪に覆われた麦畑……。どれも昔からずっと見続けてきたものだった。しかしそれらの物は全て、私の前から消え失せていく運命だった。
農園の中では小作人たちが愛想を振り撒き、通りすがりに挨拶をしていった。そんな光景は見慣れたものだったが、なぜかとても懐かしく感じたものさ。それから私は早い目の朝食を済ますと、身繕いをしてアーニャの元を訪れた。彼女の部屋に入ってみて私は驚いた、彼女が自分の赤ん坊を抱いて乳をやっている最中だったからだ。アーニャは私の顔を見ると、照れくさそうに笑った。
「この子に罪は無いのさ。せめて今の間だけでもこうしてやらないとね……。それにしても、よくこれだけ飲むもんだよ! これじゃ、あいつだって、さぞ手を焼いただろうさ!」
アーニャはそういって笑った。抱かれた子は懸命に口を動かし、乳を吸い続けていた。
私はアーニャに言った。
「アーニャ、しばらくの間こうしていてくれないか? 私はいろいろと後始末が有るんだ。当分の間、ここで過ごしていてくれ」
次に私がすべきことは、ドゥエルと話をつけることだった。私は居間にドゥエルを呼ぶと椅子に座るよう勧め、テーブルを挟んで向かい合った。私は彼に話しかけた。
「ドゥエル……。覚えているかね? あの夜のことを。今になって思い出すのさ。ここに私が座り、御者のヴィロンスキーはここに座っていた。今の私には、あの時のお前の気持ちがとてもよくわかるんだ」
「私は愚かな賭けをして全てを失った。このことは事実だ。でも、それは誰の責任でもない。私はつい最近そのことに気付いたんだよ。これは手紙にも書いたとおりだ」
召使は、ただ俯いたままで私の話を聞いていた。私は続けた。
「それは、決してお前のせいではない、アーニャのせいでもない。そして、この私のせいでもない……。全て、この世に賭博という物を作った、気まぐれな神のせいなんだよ」
話を聞いていた召使の目に涙が溢れた。彼はテーブルに伏せ嗚咽し始めた。私は話し続けた。
「ドゥエル……。アーニャのことを諦めてくれないだろうか? 勿論、お前との子供はちゃんと面倒をみる様にしておく。約束するよ。私はリザを失った。そして子供たちも。だからお前がアーニャを失う気持ちは、痛いほどよくわかるんだ……」
私がここまで話し終えたところで、ドゥエルが顔を上げて言った。
「勿体なすぎるお言葉です。ご主人様……」
私は言った。
「私は、あの御者との賭けに負けた。ヴィロンスキーに一エーカーの麦畑を与えなければならない。残りの農地の半分を、お前とあの赤ん坊に譲ることにする。そしてもう半分はリザに継いでもらう。お前は今日からここの地主だ。これから農園の管理はお前とリザが一緒にうまくやっていってくれ」
召使が驚き叫んだ。
「それでは、旦那様はこれから一体どうなさるおつもりで?」
私は答えた。
「私とアーニャにとって今必要なことは、失う物を持たないことなんだよ。たとえ地主を続けていこうとしても、おそらくは農地を全て失い、多くの小作人や召使たちを不幸にするだけだ。だから、これからは何も持たず、ここに居る農夫たちと同じように汗水を流して働くことにしたのさ」
ドゥエルはテーブルに顔を押し付け頭を抱えた。そして低く呻くように言った。
「旦那様が百姓など……、それはあんまりでさぁ! あっしには、到底そんなことはできません」
私はドゥエルの手を取り、そして言った。
「ドゥエル、私の願いを聞いてくれるね?」
ドゥエルは涙で光る顔を上げて、じっと私の目をみつめた。
「旦那様……。正直に申し上げます。あの夜、あっしはあいつを連れ戻すことはできないと思っていた。いいえ、知っていたんでさ。それにもかかわらず無理を承知で、旦那様にあんなお願いをしちまったんです」
「あっしは無理を承知で、あんなお願いをしちまった。このことが原因でこんなことになったんです。ですから旦那様、悪いのは全てあっしでございます。農地を投げ出して百姓をするなど、どうぞおやめくださいまし……」
私は静かに言った。
「ドゥエル、もう私の心は決まっているのだよ。私の頼みを聞いてくれるね?」
ドゥエルが泣き叫んだ。
「旦那様……、あなたは神様のようなお方だ! このご恩は一生忘れません」
こうして、帰郷してすべきことが一つ終った。

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