――そして翌日の朝、召使のマスラクの乗る馬車が迎えに来た――
私たちは、久しぶりに故郷の土を踏むこととなった。降りしきる雪の中、馬車はスタヴォロポリに向けて走った。馬車がスタヴォロポリに着いたのは、夜もかなり更けてからだった。私はマスラクに命じてアーニャの部屋を準備させ、我が家のドアを開けた。
久しぶりに見る我が家は、少しも以前とは変わっていなかった。綺麗に磨かれた窓、娘のミーシャの為に新調したピアノ。その譜面台には、彼女が好んで弾いていたベートーベンのソナタ『月光』の楽譜が、開かれたままで置いてあった。そして隅に置かれた大きな鳩時計はゆっくりと時を刻んでいた。しかし、テーブルの上に置いてあるリザのお気に入りの花瓶に、花は飾られてはいなかった――。
その時奥の扉が開き、ドゥエルが現れた。
「旦那様……」
ドゥエルは私の足元に頭をこすり付けて、何度も何度も繰り返し泣き叫んだ。
「旦那様、申しわけありません! ああ! あっしのせいで、あっしのせいで……、何ということに……。こんなとんでもない、取り返しのつかないことになっちまうなんて! ああ! あっしは何と言ってお詫びすればいいのか……」
私はドゥエルに手を差し伸べて言った。
「お前に謝らなければならないのは、私の方なんだよ。そしてドゥエル! たった今から、私はお前の主人ではない。詳しい話は、後でするとしょう」
私はそう言ってドゥエルを立ち上がらせると、彼に尋ねた。
「リザはどこに居る?」
ドゥエルは私の目をじっとみつめ、肩を落としながら言った。
「旦那様、奥様は今、体調を崩されて奥の部屋でお休みでございます」
「良くないのかね?」
ドゥエルは首を横に振って答えた。
「何しろ、昨日から何もお召し上がりになりません。あっしも気をつけてはいたんですが、行き届きませんもので……。申し訳ございません」
召使はそう言うと、深々と頭を下げた。私はドゥエルに尋ねた。
「それと、私の手紙はリザの手許に届いているんだろうね?」
ドゥエルが答えた。
「はい、間違いなくお届けいたしました」
私は一階の廊下を歩き、リザの居る一番奥の部屋へと向かった。部屋の中は暗かった。ベッドに横たわっているリザは眠っているように見えた。それから私がそっと立ち去ろうとした時、か細い声がベッドの中から聞こえた。
「あなた……」
私はベッドに歩み寄り、言った。
「リザ! 起きていたのかい? 無理しなくてもいい! 明日、また来るから……」
リザが言った。 
「いいのよ……」
「あなたからの手紙を読んだわ……」
力の無い声だった。無理も無かった。私はベッドの横の椅子に座り、彼女の手を握り締めた。
「リザ、すまない……。お前には、本当に取り返しのつかないことをしてしまった」
リザが言った。
「私ね、前の手紙を書いて、あなたにリングを返したわ。でもね、本当はそうすればきっと、すぐにでも帰ってきてくれると思っていたの……」
「けれど、この手紙を読んで決心できたわ」
リザは私の書いた手紙を手に取り、溜め息をついた。私はリザの手を握り締めた。涙がとめどなく流れ落ちた。そしてリザの手に、自分の頬を押し付けながら叫んだ。
「リザ! 私を許してくれ! でも、こうするより他に方法は無かったんだ」
リザは少し微笑むと言った。
「私は知っているわ。普段あなたがどんなに苦虫を潰したような顔をしていても、本当はとても優しい人なんだってことを……。そんなあなたが選んだんだから、それが一番良い答よ。そう私は信じているわ」
そして彼女は言った。
「あなたにお願いがあるの。私たち、来週にはここを出ようと思うの。だからせめてそれまでの間、子供たちと一緒に居てあげて!」
私は泣き続けていた。堪えようとしても、涙がどんどん溢れ出た。それまで生きてきて、あれほどの悲しみに出会ったことなどなかった。私は思った。
――それにしても私は、賭けることの代償として、何と大きな物を失ってしまったのだろう――と。
リザが言った。
「今日はもう休んで来て頂戴。 あなただって、疲れているわ」
私は言った。
「リザ……、すまない。今はゆっくり休んでくれ。続きの話は明日にしよう」
そう言って私が部屋を立ち去ろうとした時、リザが優しく囁いた。
「あなた……」
「それにしても、本当にお馬鹿さんね! でも、そんなあなたが好きだったわ。愛していたの……」
リザはそう言うと、ベッドに伏せて嗚咽した。私は流れる涙を拭おうともせずに、部屋を立ち去った。

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