リザは良い妻だった、彼女が故郷のエルブルス山(注二四)の麓の実家まで帰るということも気にかかった。しかし、あの時の私にとってそんなことは些細なことだった。この金を元手にして勝負に勝てば、全てうまくいくと考えていたからだ。
――そうだ! 勝ちさえすれば良い。そうすれば、すぐにアーニャを連れてスタヴォロポリへも戻れるし、リザを迎えに行くことも出来るだろう! 勝てば、全てがうまくいく!  そう! 勝てば良いのだ!――
私の頭の中は完全に狂っていた。私は一つの農場が傾くくらいの金を弄ぶことが、自らの使命であると信じ込んでいた。だが……。あの時一度は、自分のやっていることと罪悪感とを天秤にかけてみたんだ。だが残念なことに、いとも容易く選んだのは堕落した方の道だったというわけさ――。

私は宿に戻るとアーニャに、受け取った百三十万ルーブルの札束を見せて言った。
「今日は、これだけの送金があった…」
アーニャが言った。
「凄い大金じゃない! どうしたのよ?」
私は言った。
「リザがトウモロコシ畑全てと、牧場の一部を手放して得た金だ」
アーニャは早速そのうちの数枚を掴み、黒パンとチーズとハム、そしてワインを手に入れて戻ってきた。私たちはここ数日、食事らしい食事を殆ど何も摂っていなかったのだ。
アーニャがワインを一口、口に含むと言った。
「おいしいわ! ワインなんか久しぶりよ」
私は言った。
「アーニャ、今日ドゥエルがやって来た……」
彼女の顔が青ざめた。彼女は急に立ち上がり、そして言った。
「あいつが来たの!? 今どこに居るのよ!? まだこの街に居るんじゃないだろうね?」
「お前を連れ戻そうと考えていたらしい。でも、無駄だと言ってもう帰らせたよ。そして、ドゥエルからいろいろと話を聞いた」
私は溜め息をつき、ポケットからリングを取り出すと、それをアーニャに見せながら言った。
「妻のリザが、実家に帰ると言って来た。私はこの上、一体何を失えば良いというんだ……」
アーニャが言った。
「そんなの、あたいだって同じことさ! こうなっちまったら、もう失う物なんかありゃしない。でも、そうね……」
それからアーニャは、寂しそうにうつむいて言った。
「あたいは、そもそも失う物さえなかったのよ」
私たちは、久々に食を満たしくつろいでいた。 私はアーニャに尋ねた。
「アーニャ、ところでこの金のことだが…。お前はどうしたら良いと思うんだ?」
アーニャは嬉しそうにはしゃぎ、叫んだ。
「決まっているじゃない! 勝負するのよ。もうそろそろ、ツキが回ってくる頃よ。これだけのお金をかけて勝負すれば、チャンスは有るわ」
アーニャは続けた。
「一儲けしたら、あんたとあたいはスタヴォロポリへ戻るのさ。そしてね……」
アーニャが私の首に腕を巻きつけながら言った。
「あたいとあんたは、一緒に暮らすのさ。あたいは、あんたの子だったら何人だって構やしない、産んでちゃんと育てるさ。そして、今度こそ幸せになるんだよ!」
私は気分が重かった。もしその金を失えば、次に私が失うのは金だけで無いことを良く知っていたからだ。私はアーニャに言った。
「もしこの金を全て失ったらどうする? また新たに金を工面するとなれば、お前も知っての通り農地を売り払うしか方法が無いんだよ。そこで小作させている農夫たちを追い出して、売るしかないということだ」 
私は続けた。
「そうなれば、何十人という家族も路頭に迷う事となるだろう……。それでも、私にこの金で勝負しろとお前は言うのかね?」
アーニャが言った。
「勝負なんか、やって見なければわからないもんさ! 勝つか負けるかわからないことに、最初から怯えていたってしょうがないよ」
アーニャが続けた。
「やってみて考えりゃいいじゃない! 負けたら負けた時のことよ」
私にも異存はなかった。そうするしか方法が無いと思っていたからだ。いや……、私はアーニャのその言葉をむしろ待っていたのかもしれない。
その夜、私たちは久しぶりにカジノに出かけた。相変わらず、カジノは人で溢れていた。よくこれだけ、賭ける事が好きな人間が多いことかと私は思った。しかし、私もそのうちの一人だったのだ。
――これがおそらく最後のチャンスなのだろう―― そう思うと、私は少し緊張した。そんなこともあって、最初は大きく賭けることができなかった。 
三回連続で勝った。しかし、勝ったとはいえ賭ける額が少ない為に、せいぜい元金の倍が精一杯だった。アーニャが苛立ちながら言った。
「大きく勝負しないと、駄目だわ。そんな小さい額を賭けて勝っても、意味無いじゃないの!」
私はそんなアーニャの言葉に圧されて大きく勝負に出たが、今度は立て続けに負け、持っていた金の半分を失った。
今まで勝負をしていて感じたのは、一度失った運はまず間違いなくその日のうちに帰って来ないということだ。まさしくその日もその状態で、最初に三回勝っただけで後は全く良いところが無く、いつしかいつも通り全ての金を失ってしまった。
私とアーニャは、途方に暮れてカジノを後にした。あの日の朝ドゥエルから百三十万ルーブルもの金を受け取り、そして一晩どころかものの二時間くらいで、私はその金を摩ってしまったのだ。
ホテルの外に出ると、雪が降り始めていた。私はアーニャと雪が積もり始めた小路を歩きながらこう考えていた。
――元はといえば、私は御者とつまらない賭けをして、こうやってネヴィンノムィスクまでやって来た。そもそも自ら賭けている者が、賭けに夢中になっている女を連れ戻せるわけなど無いのだ――
そして、それ以上取り戻そうとして賭け続けることはもはや無駄だと、そう悟ったというわけさ。あの時アーニャは言った。私にはそもそも失う物など無いと。しかしその時私は、ふと気付いたのだ。自分にはまだ失ってはならない物が残されていることに気付いたのだ――。
そう思った次の瞬間、私はある決断をして大きく息を吸い込んだ。私は自分が何者かから開放され、自由になったことを感じていた。不思議な感覚だった。あれほど多くの物を失ったにもかかわらず、なぜか体は充実感で満たされていた。今思えば、まさにあの時が私にとって、新たなる人生の始まりだったのだ。

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