私はアーニャの乳房から唇を離し、そんな不埒な考えを打ち消すように言った。
「アーニャ、ドゥエルは私の父が生きている頃からよく支えてくれた。彼は真面目で優しい男だ。この私ときたら、お前も知っての通り父譲りの冷血漢で、情けなんてこれっぽっちも持っていない男さ。たとえお前が私と一緒に居ようとしても、きっとすぐに嫌になって逃げ出したくなるさ。それに結婚するという事は、お互いに我慢することも必要なものなんだよ」
アーニャが、私の目を覗き込むようにして言った。
「でもイワンさん、あなたは、こうして私をスタヴォロポリからわざわざ迎えにきてくれたわ! それにあなたはね……」
アーニャは、いたずらっぽく微笑んだ。
「本当はとても優しい人よ! あたいは知っているの。目を見ればわかるわ! 私が頼んだ時、嫌な顔一つせず、おっぱいを飲んでくれたでしょ? あたいは、あなたのことが好きよ……」
そうだ、そうだった! それまで私は、生まれてこのかた一度だって他人から、優しいなどと言われたことは無かったのだ。しかし、おお! 何ということだろう! あの時アーニャから優しい人と言われ、なぜか十五の時から久しく会っていない母の横顔が忽然と思い出されたのだった。とても不思議な気持ちだった。私はこう思った。
――もし今までに誰かが私に対して立った一言でも優しいと言ってくれていたならば、私はおそらくあんな無謀な賭けをすることも無かったに違いない――
――そう! ひょっとすると私はそれまで生きてきて、誰かからのこの言葉を待ち続けていたのだ。誰かがこう言ってくれるのを待ち続けてきたのだ――と。
私はアーニャに言った。
「私は他人から優しいと言われたのは生まれて初めてだ。私が優しい人間だって? とんでもない、それはお前の大きな誤解さ」
アーニャが笑い転げながら言った。
「優しい人で無ければ、ここまでわがままな女に付き合ってくれるわけないわ! あたいにはわかるのよ! 適当に遊んで楽しんだら、あとはそそくさと帰る。男なんて、皆そんなもんだわ」
そして、アーニャは尚も笑いながら言った。
「お人よしにも程があるよ! こんなあばずれ女に付き合って一晩に四十万ルーブルも摩っちまうなんてさ! でも、あたいはあんたが好き!」
私は言った。
「アーニャ、お前に聞きたいことがある」
「わかっているわ。なぜ、こうなったのかって、そして、どうしてこんな暮らしができているのかって、そうでしょ?」
「その通りさ。話してくれるかい?」
「そう、約束だったわね……」
それからアーニャは、自分がなぜスタヴォロポリを離れ、ここネヴィンノムィスクでカジノに入り浸る生活になったのかを語り始めた。
「あたいは、あの男と一緒になる前、バクチに狂った親父から逃れようとして、家を飛び出したことがあるの。親父はまだ十六だったあたいを、バクチの金を作る為に売り飛ばそうとしたのよ」
「そのことを知って、あたいは着のみ着のままで、ここネヴィンノムィスクの近くまで歩いて逃げてきたの。そして何も食べずに歩き続け、クバン川のほとりで倒れてしまった。その時にあたいを助けてくれたのが、あのルドルフ少尉の部隊だったのよ」
「彼は私に優しくしてくれたわ。あの人がネヴィンノムィスクに居る間、私たちは夢のような生活を送ったの。毎晩ドレスを選んでダンスに出かけたわ……。その頃よ、カジノに行くことを覚えたのも。でも、そんな幸せも長く続かなかったわ……」
「あの人には妻子が居るの。サンクトペテルブルグ(注二二)の出身で、今もそこに家がある筈よ。彼の家系はもともとずっと貴族だった。彼の父は内務省の下士官で、そんなこともあってペテルベルグの士官学校を卒業すると、彼はあんな歳で将校になったのよ」
「彼の赴任先はずっとここネヴィンノムィスクの駐屯地だったから、彼がここに居る間、私はずっと公然の内妻だったというわけよ。これでわかったでしょ? 私がここでこうやって遊んでいられるわけが……」

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