私たちは抱き合いながら、ベッドの中で眠り続けていた。疲れ果てていた。前の晩は一睡もしていなかったからね。すると突然、部屋のドアがノックされた。
「イワン・オフロフスキーさま、玄関にお迎えの馬車が参っております」
ボーイはそうドアの前で告げると立ち去った。スタヴォロポリから迎えの馬車が到着したのだ。私は急いで着替え、馬車の元へ向かった。召使のマスラクが私を笑顔で迎えた。
「旦那様、ご無事で何よりです。奥様も少し心配のご様子でしたよ。何かお困りなことでも有りましょうか?」 
マスラクは一番年長の召使で、ドゥエル同様、真面目で口が堅く信頼できる男だった。 私は彼に言った。
「マスラク、聞いて欲しい。少し仕事に手間取っている。そのあたりの事をリザにうまく伝えて欲しいんだ……」
「よほどお困りですか? 何か私でできることが有ればおっしゃってくださいまし」
「しばらくの間、どこかで待っていてくれないか。今日この馬車で帰れるかどうか、まだわからんのだ。それと、私の身の回りの物は持ってきてくれただろうね?」
マスラクが答えた。
「はい、だんな様! それと、奥様からこれを託ってまいりました」
マスラクはそういうと、私に分厚い紙包みを手渡した。私は召使と別れると、それを開いた。その中には百万ルーブルの札束とリザからの手紙が入っていた。

愛するあなた

あなたの物一式をマスラクに託けます。
その他に、当面の路銀(注二一)として、
百万ルーブル入れておきました。

仕事で必要なこともあるでしょうから……。

それと、農場は変わりありません。
全てうまくいってるわ、子供たちも元気よ。

心配いらないから、仕事に勤しんでください。

リザ

その手紙を読んで、私の心は揺れ動いた。あの時は確かに、リザにすまないことをしたと感じていたのだ。しかしなんという事だったろう! 咄嗟に身を包んだのは得も言われぬ安堵感だった。
――ちょうど乏しくなってきた路銀に、この百万ルーブルは実に助かる。これだけの金を持って今夜勝負すれば、きっと今度は勝てるに違いない――
あの時の私は、そう思ったというわけさ。
――どちらみち、今日馬車を出すとすれば昼一番くらいにはここを発たねばならない。そのことを考えれば、今日一晩を過ごし明日の朝一番で帰っても良いのだ――
馬鹿げたことだが、私は自分に対して都合よく言い訳した。あの時から、既に私は狂っていたといえるだろう。
それから私が部屋に戻ると、アーニャは既に目を覚ましていた。アーニャが、ベッドの中から眠そうな声で言った。
「どうしたの?」
「迎えの馬車が来たんだ」
突然、アーニャはベッドから起き上がり言った。
「あたしたち、もう帰らなきゃいけないの!? あたい……、もう少し、あなたとこうしていたいわ」
私は言った。
「今夜もう一晩は、ここに留まる事にしよう。ただし、明日の朝ここを引き払う。わかってくれるね?」
アーニャがはしゃいだ。
「嬉しいわ! もう一日ここで過ごせるなんて! でも今日一日だけね。こんな生活も……。明日からは、またあの男の下で炊事に洗濯、そして赤ん坊にミルクをやってさ……」
そしてアーニャは、肩を落としてこう呟いた。
「それに、あんな男に毎晩抱かれなきゃならない」
アーニャの頬を一筋の涙が流れ落ちた。私は何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
突然、アーニャが自分の乳房をつかみ出した。そして、自分の手でそれを扱き始めた。 乳白色の乳が、音を立てて床に滴り落ちた。
「好きでもない男の赤ん坊を、あたいは産んだのさ。確かにあの時、あたいを助けてくれたのはあの男さ! 自分の好きな男の赤ん坊なら、片時だって傍を離れずおっぱいだって飲ませるだろう……」
「でも、助けられたとはいえ、あたいはあの男の言いなりだったんだよ! 決して自由になんかならかったのよ!」
アーニャはそう言うと、ベッドに突っ伏し嗚咽し始めた。私はアーニャの肩を抱き、こう言った。
「アーニャ、もう少し眠った方がいい。 お前は疲れているんだ」
アーニャが言った。
「イワンさん、お乳が張って痛いの! 吸って下さる?」
私はアーニャの乳房を吸い続けた。不思議な味がした、今までに経験したことのない気持ちだった。そしてその時、私は感じたのだ。そう!
――私はこれからずっと、この女と一緒に暮らしていくのかもしれない――と、ふとそんな気がしたのだ。 
アーニャが涙に咽びながら言った。
「あなた……、あたいを離さないで」

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