男は軍服を着ていた。肩に将校の位を示す紋章、胸には三つの勲章を付けていた。彼は、アーニャの横にいる私に気が付くと言った。
「アーニャ、こちらはお連れさんかい?」
「そうよ、お世話になっている農場主さんなの。イワン・オフロフスキーさん。こちらはロシア軍西部作戦指令部少尉のルドルフ・カシューリンさんよ」
男は帽子に手をかけ、丁寧に一礼した。
「初めまして、イワン・オフロフスキーさん。ロシア西部作戦指令部隊少尉のルドルフ・カシューリンです。よろしく……」
私も男に挨拶した。
「スタヴォロポリで農園を営んでいる、イワン・オフロフスキーです。お目にかかれて光栄です」
男が言った。
「そうですか! 私たちの部隊はここネヴィンノムィスクに駐留しておりますが、お噂はよく耳にしていますよ。お近づきになれて、光栄であります。今日は、ブカレスト(注二〇)から帰還したばかりでして……。そうそう!」
男はそう言うと、ボーイを呼んだ。
「イワンさん、お飲み物は何が好みですか? お近づきの標しに一杯、ご馳走させていただきましょう!」
「それではルドルフ少尉、お言葉に甘えてスコッチを頂戴いたします」
「そうですか。それでは私はウオッカを。いや、最近はここに来て遊ぶことも、なかなか叶いませんでしてね……。バルカン半島は、もうかなりきな臭い状態ですよ。もっともこれは、イワンさんに関係ないお話でしたね」
軍人はそう言うと、気さくな笑顔を浮かべた。私たちは乾杯した。軍人が言った。
「ところでイワンさん、カードはなさらないんですか?」
私は答えた。
「私はそもそも、こういった勝負をしないんですよ」
軍人が答えた。
「そうですか。私は今日調子が悪くて、もう二万ルーブルやられていますよ。もっとも、このままではいられませんがね!」
少尉は笑ってそう言うと、いそいそと私たちのテーブルに座り勝負に加わった。
あの男は軍人だが、悪い男ではなさそうだった。ただし、気になることが一つあった。私はアーニャの視線が気になっていたのだ。なぜなら彼女が時々この軍人をみつめ、微笑んでいたからだ。
アーニャ自身はもう既に負け分を取り戻し、目の前のチップは優に二万ルーブルを超えていた。それからの勝負は軍人も好調だった、アーニャと軍人はお互いに時々、冗談を言い合いながら勝負し続けた。アーニャの目は輝いていた。それは、自分が勝った時のみならず、軍人が勝った時もそうだった。
――アーニャはこの少尉と、特別な関係なのかもしれない。――
私は、そう感じていた。一方で、賭けもせずにじっとその場に居ることは大きな苦痛だった。しかし私は、心の中で固く思っていたのだ。
――ここで勝負をすれば、負ける事だって有り得る。そう! ここは我慢して過ごさねばならない――と。
突然軍人が叫んだ!
「よし! これで全て取り戻した。ここからの勝負だ!」
その時、私は見たのだ! アーニャが燃えるような眼差しで軍人を見つめているのを――。私の心は嫉妬で揺れ動いた。それは生まれてこのかた、一度だって経験したことのない不思議な感情だった。
私はいつだって憧れられる存在だった、自ら女を好きになり、ましてや嫉妬するなど思いもよらないことだった。そんな私が、なぜそんなバクチ好きの女に拘ってしまうのか、全くわからなかった。
私は言った。
「アーニャ、まだやるのかい?」
「勝負はこれからよ! あなたも見てるだけじゃ面白くないでしょ! 勝負したらいいのに」
アーニャは私の方を振り向きもせず、ぶっきらぼうに答えた。アーニャの言葉に続き、ルドルフ少尉が笑いながら言った。
「そうですよ! ここの親は弱いですから狙い目ですよ」
ディーラーの男が、両手を上に挙げておどけてみせた。彼が手札をめくり、アーニャが叫んだ。
「ほら! また二人とも勝ちよ! つきだしたら、本当にこんなものなんだわ!!」
私の心は揺れ動いていた。既に頭の中は嫉妬で狂い、愚かな考えで満たされ始めていたのだ。
――もし私が今この席を立ったら、果たしてアーニャはあのホテルへ戻ってくるだろうか? このまま賭け続け、この少尉と一夜を過ごす可能性だって有るのだ。そうすれば、明日の午後馬車に乗せてスタヴォロポリに連れ帰ることなど、おそらくできはしまい――
――それならば、ここは一緒にカジノで過ごした方が得策ではないか? そうだ、勝負は必ず負けるとは限ってはいない! 勿論勝てることだってあるのだ! しかも俺はさっき、ちゃんと止め時を考えて一儲けしたではないか! 手許には先程勝った一三万ルーブルもの金が有る……。たとえこれが無くなっても、私はびた一文損をすることはないのだ――
私は言った。
「それではルドルフ少尉、私もひと勝負するとしましょう」
そして私はボーイを呼び、ルーブル札を掴み出して言った。
「これを替えてきてくれ、それとウオッカを三杯だ!」
こうして、私は五つ目の過ちを犯した。そう! 私は知らなかったのだ。甘すぎる果実には毒が溢れているということを――。

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