食事が済み、私たちは食後のマデラ酒(注一五)を注文した。
アーニャが言った。
「あたいはね、本当はあの男と一緒になる気なんか無かったの。あたいの親父はバクチに狂って商売を投げ出し、何もかも滅茶苦茶にしたわ。親父が店をやめた後、母はあたしたち姉妹を養う為に行商へ出たの。でも、母が苦労して稼いだお金を最後の一コペイカ(注一六)までも奪い取って、親父はルーレットに通ったわ。そんな酷い家からあたいを救い出してくれたのが、あの男だったのよ。でも、あの男と一緒になって気がついたの。どうしてもあたいはあの家に居たくないって……」
私は言った。
「なぜだ? ドゥエルは真面目な男じゃないか。酒もやらないし女癖も悪くない。バクチだってやるような男じゃない」
「だから、嫌になったのよ! あたいの親父はね、それは酷い男だったわ、でも……」
アーニャは、そう言いながら目を伏せた。私は尋ねた。
「でも?」
アーニャが悲しそうに答えた。
「それぐらい、付きっ切りで心配しなけりゃならない男でないと、あたいは駄目なのよ!」
それから私たちはレストランの外に出た。まだ夏だというのに吹く風は肌寒かった。少し前から小雨が降っているらしく、ガス灯に映る街路樹が霞んでいた。
アーニャが嬉しそうな声で言った。
「イワンさん、今日は楽しかったわ! こんな素敵な夜は久しぶりよ! あたい、近くのホテルに泊まっているの。送ってくださる?」
私はアーニャを、ホテルまで送り届けることにした。雨は少し強まったようだったが、私は傘もささずアーニャに寄り添ってポプラ並木の小径を歩き続けた。
彼女の泊まるホテルまで雨に打たれながら歩いた。あの濡れた石畳の道を、私は今でもよく覚えている。なぜだかそれは、私にとってとてつもなく長い道のりに思えたからだ。無理もないことだよ。今考えれば、あの時の私はまさに人生の岐路にいたというわけさ。 
ホテルに着くと、彼女が言った。
「少し前からここにいるの。洒落たホテルでしょ?」
私は驚いた。なぜなら彼女が泊まっているというホテルは、当時ネヴィンノムィスクではかなり高級なホテルだったからね。
別れ際に、私はアーニャに言った。
「アーニャ! 考え直してくれないか、明日の朝迎えに来る。それまでに、良く考えておくんだ」
アーニャはそれに答えず言った。
「ありがとう、イワンさん! とても楽しかったわ。おやすみなさい」
そして、彼女は微笑むと客室への階段に足をかけた。私は彼女を見送るとホテルの玄関に向かった。その時ふと足元を見ると、玄関のドアの前に一枚のハンカチーフが落ちていた。アーニャが使っていた物だった。
私はとっさにそれを拾うとアーニャの後を追った。私が階段を上りきった時、彼女は立ち止まり、そして振り返った。アーニャは、妖しく微笑むと言った。
「すぐそこの部屋に居るの」
アーニャは鍵を開けて私を部屋に招き入れた。それから、後ろ手にドアを閉めながら言った。
「だんな……、いえイワンさん。あたい本当はとても嬉しかったんだ。わざわざ迎えに来てくれてさ。だからね……」
突然彼女は、私の頬を両手で挟みながら言った。
「あたいを抱いて……」
私はあのとき感じたのだ。そう! 何かわからないが、とても大きな物を自分が失おうとしていることを。
私は彼女を抱きしめ、そして言った。
「私は馬鹿だ……」
彼女は私を抱きしめながら言った。
「あたいは、お馬鹿さんが好きよ」

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