次の日の朝私は馬車に乗り、ネヴィンノムィスクへと向かった。ネヴィンノムィスクはスタヴロポリから馬車で半日ほどの道のり。もともと商人の町だが、あの頃はこのあたりのちょっとした社交場として知られていたものだ。私は召使の女房であるアンナが、ネヴィンノムィスクに有るホテル・ドゥレステンに居ると聞いていたのだ。
ネヴィンノムィスクの街に入ると、一面のポプラ並木が夕日を浴びて光っていた。街路樹の茂る通りを右に曲がると、もうそこは石畳が敷かれ行きかう人の数も多くなっていた。
そのあたりで出会うのは、バーやダンスホールへ向かう者ばかりで、男は皆正装し女たちは着飾っていた。昼は商人でごったがえす町も、着いた頃にはもうすっかりと夜の佇まいをみせていた。
私は、馬の手綱を引く召使のイリヤーに向かって声をかけた。
「イリヤー、もうすぐ近くまで来たぞ、気をつけろ」
「はい、かしこまりました。だんな様」
ホテル・ドゥレステンは街の中心部よりも少し南にあった。当時あのあたりは、明るいうちは仕立屋や、鍛冶屋などが立ち並び、露天で物を売る人々が集まる市場が出ている場所だった。私はホテルの前で馬車を止めて召使にそこで待つように命じ、真っ先にクロークに行って主任らしい男に尋ねた。
「アンナ・ビルヴァンスカナという女が、ここに泊まっているはずだ。会わせてもらえないだろうか?」
クロークの男が答えた。
「はいお客様、残念ながらあのお方は、もうここにはお泊りになっていらっしゃいません」
「いつここを引き払ったんだね?」
「五日前に、出て行かれました」
「あの女に会いに来たんだ。どうすれば会えるか君は知らないかね?」
「申し訳ございません。私はそういったことはとんと存じませんもので……」
クロークの男は少し申し訳なさそうな手振りを見せ、訝しげに私の顔を見た。私は一枚の百ルーブル札を男に差し出した。そしてその男の目を見つめながら言った。
「どうかね、教えてもらえないだろうか?」
男は愛想良く微笑むと、紙幣をポケットに仕舞い込んだ。
「今も多分、地下のカジノにいらっしゃいますよ。よろしければ、これからご案内いたしますが……」
男はそう言うと、奥の階段へと私を案内した。古い造りの階段は所々絨毯が剥げ、足を置くと軋む音がした。
――賭博場特有のざわめきと煙草の匂い、薄暗い光の中に並んでいるカード用のテーブル、そして部屋の真ん中に置かれた古ぼけたルーレット―― その一室は、ホテルにあるカジノにしては、全く飾りげの無い殺風景な所だった。
私は不思議に思った。
――本当にアンナはこんな所に居るのだろうか?――
それでも席はほぼ満席で、ディーラー(注八)が忙しそうに客の応対をしていた。その時私は、そんな客の中に混じって一人の若い女が座っているのに気づいた。高く積まれたチップの山が彼女の前にあった。一つの勝負が終わり、ディーラーが彼女の前にまた一山のチップを積み上げた。程なく次の勝負が始まり、彼女が叫んだ。
「オンリ(注九)よ、今回は降りるわ」
甲高く、聞き覚えのある声だった。丸くまとめた髪、上品そうなシルクの手袋、少し胸元の開いたピンクのドレス――。私は自分の目を疑った。しかし、彼女はまさしくアンナ・ビルヴァンスカナその人だった。おそらくその声を聞かなければ、私はその女がアンナだと気付かなかっただろう。それほどまでに、彼女はすっかりと変わってしまっていた。
草むしりをして節くれだった手を白く上品な手袋で覆い、きれいに化粧した横顔は、どう見ても赤ん坊を抱えた召使の女房には見えなかった。忙しい家事や子守に追われ、その合間を見て小作の手伝いに出る女がこんな場所に出入りしているとは、誰も気づかなかったに違いない。
私が彼女のテーブルに歩み寄ると、客の一人が声をかけた。
「やあ、これは良いところに来られましたね! 私は今ちょうど、抜けようとしていた所だったんですよ」
私はその男の声を無視してアンナの横に行き、彼女の耳元でこう囁いた。
「私はイワン・オフロフスキーだ。 アンナ・ビルヴァンスカナさんだね?」
女は驚いた表情で私を見上げ、そして低い声で言った。
「だんな様! なぜ、こんな所へ?」
「お前を連れ戻しに来たんだよ.さあ帰ろう! ドゥエルが心配して待っている。赤ん坊にやるミルクにもこと欠いて、とても困っている。さあ、荷物をまとめろ! 明日の朝早くに馬車で出れば、夕方までには帰れるだろう」
しかしながら次にアンナが言った言葉は、私が全く予想できないものだった。
「旦那様……、悪いのですが、私はもうあそこに戻りません。今日はこのままお引取りくださいまし」

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