場に一瞬静寂が訪れた。更に御者は話し続けた。
「ねえ旦那、あなたはそもそもあの男の女房を説き伏せて、連れ帰るってことができる人じゃねえ。バクチに狂っている人間をちゃんと説得して、連れて帰るってことに自信が無いんでさ……。そうでなけりゃ、誰だって行くもんだ。よほど情けの無い人でない限りね」
――意気地なし…… それはまあ良かろう、この男の言いそうなことだ──
そう思いながらも私は、御者の次の言葉を苦々しく感じていた。
――情けが無い──
そう! 私は御者のこの一言に言葉を失ったのだ。
──確かに、この私に今まで情けなどあっただろうか? そう、人を思いやることなど、かつてあっただろうか?――
私はしばらくの間、御者のこの言葉を噛み締めていた。しばしの沈黙の後、隣町の地主であるボルドフ・ミハイロヴィッチが口を開いた。
「ヴィロンスキーさん、さっきからあなたの言い方はひどすぎる。言を慎むべきです」
彼は顔色を変え、御者に食ってかかった。
「この結末をどうつけようが、それは主のイワン・オフロフスキーさんがお決めになることです。だいいち我々はこんなことについて、何一つ責任を取れっこないのですからね!」
私は、召使の方を見た。彼はただうなだれているようにしか見えなかった。おそらく、客人の前で主人の醜態を見せてしまったことを後悔していたのだろう。
──自分のせいでこうなってしまった。俺はおそらく暇を出されるに決まっている──
そう思っていたに違いない。御者が言った。
「違ぇねぇ! そのとおりだ。いやいや、あっしはついつい言い過ぎちまった。旦那、申し訳ねえ。気を悪くしないでくだせぇよ」
その言葉とは裏腹に、御者は悪びれる様子を見せなかった。それから私は再び召使の方を見た、彼は相変わらず俯いたままだった。私は強い口調で御者に言った。
「お前に一エーカー(注七)の麦畑をくれてやる……。ただし、お前が俺との賭けに勝ったらの話だ!」
その席にいた者たちが一斉にどよめいた。私は、叫びとも嘆息とも聞こえるどよめきが収まるのを待って話し続けた。
「俺がもし、こいつの女房を連れ戻せなかったら、お前に一エーカーの麦畑をくれてやろう。その代わり、もしちゃんと連れ戻って元の鞘に納まったら、その時は今ここに居る客人と私全員の前で、床に頭をこすり付けて謝ってもらうぞ」
御者が笑いながら答えた。
「旦那、いやイワン・オフロフスキーさん。危ない賭けはやらねぇこった。あっしも悪気があって言ったわけでもねぇんだし……」
私は御者の言葉を遮り、こう言った。
「受けるのか? それとも受けないのか?」
御者が答えた。
「それじゃ、お受けしましょう。もしも旦那が勝ったらその時は、おっしゃる通りにいたしゃしょう。それと……、その女房が二度とバクチに手を出さないと誓うのなら、どうぞあっしの馬屋で一番良い馬を選んで下さいまし、一頭差し上げましょう」
突然召使が叫んだ。
「だんな様! どうぞ無茶な賭けはお止めくだせえまし。あっしの家の為に、だんな様にそんなご迷惑をかけるわけにはいきません。お願いでございます、どうぞお止めくださいまし!」
私は召使の方を見た。そしてその時、彼の目に涙が溜まっているのをはっきりと見た。それまでこの男は、ずっと私の言うことに背こうともせず、真面目に仕え仕事をし続けてきた。そればかりか彼は、自分の事が一番大切な時に、主人である私のことを一番に気遣っていたのだ。
私は胸が熱くなった。涙まで溜めて私を圧し止めようとしている、そんな召使の姿を見るのは生まれて初めてだった。 
私は召使に命じた。
「明日の朝早くに立つとしよう。手短に支度をしてくれ。農場の後始末は、ポローニャとその家族に任せろ、手際よくやるんだ」
私は、御者に言った。
「ヴィロンスキーよ……。私にとって今日は面白い一日になった。礼を言うよ。ただし、この借りはきっちりと返させていただく」
御者は皮肉たっぷりの口調で答えた。
「イワン・オフロフスキーさん、とんでもねえ。礼にはおよびません」
それから彼はいつものように、上目遣いで笑いながら言った。
「それよりも、どうぞご無事で」
それから私は客人たちに彼らを不愉快にさせたことを詫び、召使にもう一本ウオッカを持ってくるように命じた。しばらくして客人たちが先程のように農場の話や世間話を始めると、私は明日早朝から出かけることを理由に席を立ち、後の世話は召使に任せることにした。
二階に上がり寝室に入ると、静かな寝息をたてて妻のリザが眠っていた。子供たちも、乳母にあやされて眠りについたようだった。私は寝室の壁にもたれながら、窓の外を眺めた。少し欠けて青い色をした月が明るく農場を照らしていた。秋の訪れが近かった。
美しい月だったことを覚えている――。だがあの時の私は、それがあの部屋で見る最後の月になろうとは思っても見なかったのだ。

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