老人は語り始めた。
――クリミアでの忌まわしい戦争(注四)が起こる二年前のことだ。あれはちょうどトウモロコシの収穫も終わろうという、夏の夜のことだった――

あの日私は客人を自宅に招いて、久しぶりの晩餐を共にしていた。食事も終わり、客人たちと豆の作柄がどうの、今年の麦の出来ばえはどうの、といった話題に花が咲いていた時だった。突然、誰かが居間のドアをノックした。
「だんな様……、失礼してよろしいでしょうか?」
ノックの主は一人の召使だった。召使は私の顔を見ると深々と頭を垂れ、おずおずと一歩前に進み出た。そして突然の訪問を詫びると客人に向かって一礼し、申し訳なさそうにこう切り出した。
「だんな様……」
「だんな様、あっしの女房は最近家に帰らねぇ! ずっと、ネヴィンノムィスク(注五)のホテルで過ごしているに違いないんです。そして朝から晩まで、喰う時と眠る時以外はバクチを打っているに決まっているんでさ。畑も家の仕事もほったらかし、赤ん坊のミルクだって、ここんところずっと隣家のかかあに頼みっぱなしなんです……。旦那様、あっしはこれから先……、これから先どうやって暮らしていけばよろしいんで?」
彼はそう言うと、悲しそうな目で私を見つめた。私は言った。
「お前は今までからずっと、そうやって駄目な女房を甘やかせてきたんだ。そんなことが原因で、お前の家がどうなろうと俺の知ったことじゃない。どうにもならない女房なら、とっとと別れりゃいいさ。暇が欲しければいつでも言え」
いつもよく働き、従順な召使の目に涙が溢れた。彼が正に絶望の底に沈んでいることは、誰が見ても明らかだった。
召使が懇願するように叫んだ。
「だんな様、それはあんまりでさ。このままだと、あっしばかりか、赤ん坊までどうなっちまうかわからねぇんです。何とかして下せぇませ。後生ですから……。お願いします。お願いします。お慈悲を……」
彼がそこまで話し終えたところで、ずっと私の隣に座り、それまで黙りこくっていた客人が突然口を開いた。
「とんでもねぇことですよ! こんなくだらないこと一つで、こうも簡単に幸せに生きていく権利を毟り取られるのだったら……、」
彼は一気にそこまで話すと、他の客人たちの顔をくるりと見渡し、大袈裟な身振りで話し続けた。
「あっしだったら、今すぐにでもこの世とおさらばしたい、そう思いますよ」
「イワン・オフロフスキーさん、なぜバクチにうつつを抜かしている人間はいつだってこうなんでしょうかねぇ? なぜ家族を放り出して、くだらねぇことに大枚をはたくのか、あっしには到底理解できないんで。実際この男は可哀想なもんだ。自分の女房がこんな始末じゃね」
そう言うと、赤い服を着た御者(注六)は旨そうにウオッカを飲み干し、少し上目遣いで私のほうをちらりと見た。私は彼にこう言ってやった。
「例えばだな、ヴィロンスキーよ。あんたはいい馬を持っているだろう? どんなに遠い道のりの旅でも頼りになる逞しい奴さ。あいつが或る日突然いなくなったとしたら……、あんたならどうする?」
御者が答えた。
「そりゃあ、決まってまさぁ! あれがぶらぶらして居そうな場所へ捜しに行く。そしてそこにいなけりゃ、とっとと諦めて次の馬を探す。それだけです」
私は御者に言ってやった。
「そうさ、だからこそあんたはバクチ打ちにならないんだ。バクチ打ちを養うことも有り得ない……」
私はそこまで話すと、召使の方を見ながら言った。
「ところが世間には、そういった馬を気にかけて夜も眠れない奴がたくさんいるのさ。だからこそ、娑婆にはバクチ打ちがごちゃまんと居るんだよ」
御者が言った。
「イワン・オフロフスキーさん、確かにあなたのおっしゃるとおりでさ。この男はこれまでにきっと女房を甘やかせて来たに違ぇねぇ。だからこそ今、女房がバクチ狂いになって困り果ててるんでさ。でも、赤ん坊に飲ませるミルクの心配もしなきゃならねえ。本当に困っているからこそ、今こうしてここに来ているんじゃないですか」
 それから彼は意味ありげににやりと笑った。そして、もう一度客人たちの方をぐるりと見まわしながらこう言った。
「ここは少し助けてやったらどうなんです?」
 私は召使の方を見た。彼は黙ったままで俯くばかりだった。私は彼に向かって言った。
「よしわかった。お前に一日だけ、暇をくれてやろう。その間に、女房を連れて帰ってくるんだ!」
 すると、しばらくして召使が申し訳なさそうにこう切り出した。
「恐れながらだんな様……、あっしが行こうが誰を行かせようが、あの女はとんと帰ろうとしないんです。これは一体なんとしたものか……」
 その時、また御者が口を開いた。
「イワン・オフロフスキーさん、バクチに狂った奴てぇのは、ちょっとやそっとじゃ連れ戻せませんぜ。誰かを差し向けたところで、無駄飯を食わせるだけでしょうよ。ここは、やっぱ主が行かねぇとね。まあ、それでも連れ戻せるかどうか……」
彼は首を傾げながら、そう言った。だが私は、頑としてこの提案を受けようとはしなかった。
「そんな有様じゃ、たとえ私が連れ戻してきた所でまた元の木阿弥さ。女房が戻ってもすぐにまた甘やかせて、同じことを繰り返すだけだ……。そもそも、バクチに狂う奴は一生直らないし、甘やかせる者は一生甘やかせるもんだ。そんな連中のことをいちいち気にかけていたら、人を使うことなどできるわけがなかろう」
私がこの言葉を話し終えると同時に、突然御者が言い放った。
「イワン・オフロフスキーさん、あなたは意気地なしだ」

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