『朝の告白』(あしたのこくはく)

 作  タカビー(奥井 隆)

「あんた、今日はたいそう長いお出かけだったね」
そう言いながら老婆が入ってきたのは、もう昼も終わり、そろそろ陽が翳りだそうという時刻だった。
「ほう、もうこんな時間かね。そろそろお暇しないと……」
老人はそう言って微笑むと、テーブルの脇に置かれた杖に手を伸ばした。
長身で頑丈そうなその体には不釣合いな杖――。それをしっかりと握り締めると、老人は主人に一言礼を言い、老婆に付き添われて帰っていった。
老婆が老人を支えながら寄り添って歩いているその姿は、誰が見ても微笑ましい光景だった。その後ろ姿は、どこにでも居そうな仲睦まじい老夫婦そのものだった。
――知らない者は、彼らのことを平凡で幸せな老夫婦だと思うことだろう。だがあの二人の背中の上に、いったい今までどれほどの悲しみが、苦難が、そして絶望があっただろう! このことを知らない者はおそらくそう思うことだろう――
そんなことを考えながらドゥエル・ビルヴァンスキーは窓にもたれ、先程まで目の前の椅子に座っていた老人のことを思い出していた。
やがて夕闇が訪れた。スタヴロポリ(注一)の夏はたいそう短い。そのせっかちな夕暮れに急かされ、人々は家に戻って夕餉(ゆうげ 注二)の支度にいそしむのだ。
ドゥエル・ビルヴァンスキーは何かを思い出したように窓から離れ、書斎のドアを開けた。夕暮れ時になると落ち着かなくなるのが、彼の常だった。その習慣は、彼の身の上に由来していたのである。彼は書斎のソファに倒れこむと、小さなグラスへウオッカを半分ぐらい注ぎ込んだ。そしてそれを一気に飲み干すと、手の甲をしみじみと眺めた。
「俺も歳をとったもんだ。もうこれは老人の手だ……」
彼は、そう呟くと目を閉じた。若かった頃の想い出が脳裏に浮かんでは消えた。それから彼は一つの出来事を思い出しながら、深く大きく溜息をついた。あたりの農場を照らす夕日は一層赤さを増し、やがて赤に代わり黒一色の世界が訪れようとしていた。そのままドゥエル・ビルヴァンスキーは眠りに落ちた。

老人が訪ねてきたのは、その日の午後遅くだった。クローニャはそのことを主に伝えると彼を家の中に招きいれ、早速お茶の準備にとりかかった。程なくアレクセイが階段を下りてきた。
彼と老人は抱き合って再会を喜んだ。アレクセイは牧場での牛の育ち具合や馬の様子などを、嬉しそうに老人に報告した。そんな話が一通り終わると、老人が言った。
「あんたは、良い跡取りだ。噂はちょくちょく聞いている。自慢の息子だってこともな。私もかつては地主の倅だった。本来なら兄が跡継ぎだったが、出来が悪かったこともあって家を放り出されたんだ。それで結局は私が親父の後を継ぐことになった。もっとも私だって今はこのとおり、落ちぶれてしまったがね……」
老人はそこまで一息に話し終えると、アレクセイ・ビルヴァンスキーに微笑んだ。アレクセイが緊張した面持ちで話しかけた。
「落ちぶれたなど、とんでもないですよ! イワン・オフロフスキーさん、あなたを尊敬していない人など、このあたりには誰一人として居ませんからね」
「挨拶が遅れたが、今日はあんたに話があってやってきたんだ。少し時間を取らせてもらっても、かまわないかね?」
「ええ、勿論ですとも! でも、わざわざお見えにならなくても、私の方からお伺いしましたものを。それと……、あいにく今日、父は遅くならないと戻ってこないのです」
「いや、いいんだ。あんた一人で大丈夫さ……」
 そう言うと老人は少し安堵の色を見せ、話し続けた。
「私はあと幾許も生きられない。知っているんだ。でもその前に、あんたには必ず話さないといけないことがある。だから、今日ここに来たのさ……」
そこまで話すと老人は少し咳き込んだ、屈強な体にもかかわらず病魔が体を蝕んでいるのだろう。アレクセイがブランデーを勧めると、老人はそれでなくウオッカを所望した。
「早いもんだな。あんなにちっぽけな赤ん坊だったあんたが、今では立派な牧場の跡取りだとはな」
老人はそう言うとアレクセイの手を取り、微笑んだ。
「勿体無いお言葉です。イワン・オフロフスキーさん」
アレクセイは、老人の前で会釈するとにっこり微笑み、その手にキスをした。老人は言った。
「まずは、私が幼かった頃のことから話そう。おふくろは、兄を溺愛して甘やかせた。そのせいで、兄はろくでもない人間になってしまった。仕事もせずバクチにふけり、女遊びにウオッカさ。とどのつまりは、勘当され放り出されちまった。私が一五の時さ、おふくろも一緒にな」
「お母様も一緒にですか。でも何故なんです?」
「おふくろが兄をダメな男にしたことを、親父は激怒したのさ。そしてもう一つ、兄を勘当すると言った時に、おふくろは親父に徹底して反対した。結果として、二人揃って家を出ることになったというわけさ。だから私は一五の時から親父一人に育てられた……」
「実際、私は学校での成績も良かったし、親父はとことん私に期待した。親父は彼流で私を一人前にする為の教育を施したんだ。使用人の扱い方、召使の躾、金の使い方、礼儀作法、私は何もかも全て親父流に教え込まれたのさ。私は完璧にそれらを覚え、親父の期待に応えた。でもたった一つ……」
 老人はここまで一気に話すと、息をのみ込んだ。アレクセイが、不思議そうな面持ちで尋ねた。
「たった一つ?」
「たった一つ教えて貰えなかったのは、人の気持ちを思いやるということさ」

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注釈はすべて最終回にまとめてありますので、どうぞよろしくお願いします。