――ドゥエル!?――
アレクセイはその名前を聞くと 、驚きで目を見張った。老人はアレクセイの顔がみるみる青ざめていくのを、じっと眺めていた。そして彼が何か言おうとするのを制し、語り続けた。
――私は驚き、そして呆れた。主人がわざわざ半日もかけて、馬車で迎えに来てやったのだ! それにもかかわらず、あの女は言いつけに背いて帰らないと告げ、自分にその場を立ち去れと言い放ったのだ!――
私は女を指さし、その目を睨みつけながら言った。
「アンナ! もう一度だけ言おう! 今すぐ帰る準備をするんだ。これは主人の命令だと思え!」
女は、つっけんどんに答えた。
「だんな様、あたいに暇を出してくれませんか? それと、お帰りになったらあの女々しい男に、お前の女房は行方知れずになったと……、そうお伝えくださいまし」
この言葉を聞き、私は背筋が凍りついた。その時ふと思い出したのは、前の晩に御者が首を傾げながら言ったことだった。
――まあ、それでも連れ戻せるかどうか――
御者は首をひねりながら、確かにそう言った。おまけに私はあの御者に、女を連れ戻せなかったら一エーカーの麦畑をくれてやると約束してしまったのだ。しかしそんなことは、これっぽっちも話せる筈などなかった。さりとて、あの場で無理やり女を連れて帰ることもできなかっただろう。私は途方にくれ、そして思い悩んでいた。すると、女がいつものように甲高い声で囁いた。
「だんなさま、いえイワンさん……。そんなことより、あたいと一緒にひと勝負しません? 今日は調子が良いのよ。食事だって後でご馳走するわ!」
「冗談じゃない! 私はバクチをやらないんだ。私の兄がなぜ家を追い出されたのか、お前だって知っている筈だろう?」
女が甘い声で囁いた。
「世の中にはねぇ、賭ける人と賭けることを嗜める人のどちらかしかいないのよ……。あたいは、やって楽しむ方の人生を取るわ!」
女はそう言うと、ディーラーに目配せしてチップを手渡した。私がこの部屋に入って来てから、まだ五分と経っていなかった。
――たったこれだけの時間しか過ぎていないのに、この女はもう賭け始めようとしている―― 私は驚きのあまり、次の言葉が出なかった。私は女の横顔を眺めながら、しばし唖然としていた。
ディーラーがカードをシャッフルし、女の手許に五枚のカードが配られた。そして親がドボン(注一〇)して女が歓声を上げた。
「ほらね! またあたいの勝ちよ!」
子供のような声をあげ、アンナがはしゃいだ。茶色い瞳がキラキラと輝いた。
「イワンさん、あたいと一緒に楽しもうよ! あなたはあたいの福の神よ、だから今夜はこんなに勝てるんだわ! これから、あたいをアーニャって呼んで!」
「さあ、ここに座りなよ! 飲み物はウオッカ? それともバリザム(注十一)がいいの? スコッチだってここには置いて有るわ」
アーニャは上機嫌にそう言って、私を横に座らせた。
――それにしても……、何という愚かな賭けをしてしまったものか!―― 私はそう思い、髪を掻きむしった。一エーカーの麦畑があれば、悠々と一つの家族が暮らしていけるだろう。私は賭けに負けたら、それをあの御者にくれてやると言ってしまったのだ。
私はどうするべきか思い悩んでいた。是が非でもこの女を説得して、明朝にスタヴロポリまで連れ帰るしか自分に道は無かったからだ。だが答えは見つからなかった。見つかる筈もなかった。もはやあの時点で私は大きな間違いを一つ犯していたのだ。
その後もアーニャは賭け続けた。私は席を立った。表に出て、連れてきた若い召使のイリャーに、宿を取らせねばならなかった。私は思案に暮れ、彼に翌朝迎えに来るよう命じた。あの時の私は、その日のうちにあの女を説得して、翌朝一緒にスタヴロポリへ連れ帰ることができると思っていたのだ……。
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アレクセイはその名前を聞くと 、驚きで目を見張った。老人はアレクセイの顔がみるみる青ざめていくのを、じっと眺めていた。そして彼が何か言おうとするのを制し、語り続けた。
――私は驚き、そして呆れた。主人がわざわざ半日もかけて、馬車で迎えに来てやったのだ! それにもかかわらず、あの女は言いつけに背いて帰らないと告げ、自分にその場を立ち去れと言い放ったのだ!――
私は女を指さし、その目を睨みつけながら言った。
「アンナ! もう一度だけ言おう! 今すぐ帰る準備をするんだ。これは主人の命令だと思え!」
女は、つっけんどんに答えた。
「だんな様、あたいに暇を出してくれませんか? それと、お帰りになったらあの女々しい男に、お前の女房は行方知れずになったと……、そうお伝えくださいまし」
この言葉を聞き、私は背筋が凍りついた。その時ふと思い出したのは、前の晩に御者が首を傾げながら言ったことだった。
――まあ、それでも連れ戻せるかどうか――
御者は首をひねりながら、確かにそう言った。おまけに私はあの御者に、女を連れ戻せなかったら一エーカーの麦畑をくれてやると約束してしまったのだ。しかしそんなことは、これっぽっちも話せる筈などなかった。さりとて、あの場で無理やり女を連れて帰ることもできなかっただろう。私は途方にくれ、そして思い悩んでいた。すると、女がいつものように甲高い声で囁いた。
「だんなさま、いえイワンさん……。そんなことより、あたいと一緒にひと勝負しません? 今日は調子が良いのよ。食事だって後でご馳走するわ!」
「冗談じゃない! 私はバクチをやらないんだ。私の兄がなぜ家を追い出されたのか、お前だって知っている筈だろう?」
女が甘い声で囁いた。
「世の中にはねぇ、賭ける人と賭けることを嗜める人のどちらかしかいないのよ……。あたいは、やって楽しむ方の人生を取るわ!」
女はそう言うと、ディーラーに目配せしてチップを手渡した。私がこの部屋に入って来てから、まだ五分と経っていなかった。
――たったこれだけの時間しか過ぎていないのに、この女はもう賭け始めようとしている―― 私は驚きのあまり、次の言葉が出なかった。私は女の横顔を眺めながら、しばし唖然としていた。
ディーラーがカードをシャッフルし、女の手許に五枚のカードが配られた。そして親がドボン(注一〇)して女が歓声を上げた。
「ほらね! またあたいの勝ちよ!」
子供のような声をあげ、アンナがはしゃいだ。茶色い瞳がキラキラと輝いた。
「イワンさん、あたいと一緒に楽しもうよ! あなたはあたいの福の神よ、だから今夜はこんなに勝てるんだわ! これから、あたいをアーニャって呼んで!」
「さあ、ここに座りなよ! 飲み物はウオッカ? それともバリザム(注十一)がいいの? スコッチだってここには置いて有るわ」
アーニャは上機嫌にそう言って、私を横に座らせた。
――それにしても……、何という愚かな賭けをしてしまったものか!―― 私はそう思い、髪を掻きむしった。一エーカーの麦畑があれば、悠々と一つの家族が暮らしていけるだろう。私は賭けに負けたら、それをあの御者にくれてやると言ってしまったのだ。
私はどうするべきか思い悩んでいた。是が非でもこの女を説得して、明朝にスタヴロポリまで連れ帰るしか自分に道は無かったからだ。だが答えは見つからなかった。見つかる筈もなかった。もはやあの時点で私は大きな間違いを一つ犯していたのだ。
その後もアーニャは賭け続けた。私は席を立った。表に出て、連れてきた若い召使のイリャーに、宿を取らせねばならなかった。私は思案に暮れ、彼に翌朝迎えに来るよう命じた。あの時の私は、その日のうちにあの女を説得して、翌朝一緒にスタヴロポリへ連れ帰ることができると思っていたのだ……。
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