ギャンブル依存症克服はストーリーを読んで!

ギャンブル依存症を題材にした小説はいろいろと有りますが、ここでは読むだけでギャンブル依存症を克服し、防止までしちゃおうって寸法です。 きっとあなたのお役に立てると思います、是非お読み下さいね!

朝の告白 その1

『朝の告白』(あしたのこくはく)

 作  タカビー(奥井 隆)

「あんた、今日はたいそう長いお出かけだったね」
そう言いながら老婆が入ってきたのは、もう昼も終わり、そろそろ陽が翳りだそうという時刻だった。
「ほう、もうこんな時間かね。そろそろお暇しないと……」
老人はそう言って微笑むと、テーブルの脇に置かれた杖に手を伸ばした。
長身で頑丈そうなその体には不釣合いな杖――。それをしっかりと握り締めると、老人は主人に一言礼を言い、老婆に付き添われて帰っていった。
老婆が老人を支えながら寄り添って歩いているその姿は、誰が見ても微笑ましい光景だった。その後ろ姿は、どこにでも居そうな仲睦まじい老夫婦そのものだった。
――知らない者は、彼らのことを平凡で幸せな老夫婦だと思うことだろう。だがあの二人の背中の上に、いったい今までどれほどの悲しみが、苦難が、そして絶望があっただろう! このことを知らない者はおそらくそう思うことだろう――
そんなことを考えながらドゥエル・ビルヴァンスキーは窓にもたれ、先程まで目の前の椅子に座っていた老人のことを思い出していた。
やがて夕闇が訪れた。スタヴロポリ(注一)の夏はたいそう短い。そのせっかちな夕暮れに急かされ、人々は家に戻って夕餉(ゆうげ 注二)の支度にいそしむのだ。
ドゥエル・ビルヴァンスキーは何かを思い出したように窓から離れ、書斎のドアを開けた。夕暮れ時になると落ち着かなくなるのが、彼の常だった。その習慣は、彼の身の上に由来していたのである。彼は書斎のソファに倒れこむと、小さなグラスへウオッカを半分ぐらい注ぎ込んだ。そしてそれを一気に飲み干すと、手の甲をしみじみと眺めた。
「俺も歳をとったもんだ。もうこれは老人の手だ……」
彼は、そう呟くと目を閉じた。若かった頃の想い出が脳裏に浮かんでは消えた。それから彼は一つの出来事を思い出しながら、深く大きく溜息をついた。あたりの農場を照らす夕日は一層赤さを増し、やがて赤に代わり黒一色の世界が訪れようとしていた。そのままドゥエル・ビルヴァンスキーは眠りに落ちた。

老人が訪ねてきたのは、その日の午後遅くだった。クローニャはそのことを主に伝えると彼を家の中に招きいれ、早速お茶の準備にとりかかった。程なくアレクセイが階段を下りてきた。
彼と老人は抱き合って再会を喜んだ。アレクセイは牧場での牛の育ち具合や馬の様子などを、嬉しそうに老人に報告した。そんな話が一通り終わると、老人が言った。
「あんたは、良い跡取りだ。噂はちょくちょく聞いている。自慢の息子だってこともな。私もかつては地主の倅だった。本来なら兄が跡継ぎだったが、出来が悪かったこともあって家を放り出されたんだ。それで結局は私が親父の後を継ぐことになった。もっとも私だって今はこのとおり、落ちぶれてしまったがね……」
老人はそこまで一息に話し終えると、アレクセイ・ビルヴァンスキーに微笑んだ。アレクセイが緊張した面持ちで話しかけた。
「落ちぶれたなど、とんでもないですよ! イワン・オフロフスキーさん、あなたを尊敬していない人など、このあたりには誰一人として居ませんからね」
「挨拶が遅れたが、今日はあんたに話があってやってきたんだ。少し時間を取らせてもらっても、かまわないかね?」
「ええ、勿論ですとも! でも、わざわざお見えにならなくても、私の方からお伺いしましたものを。それと……、あいにく今日、父は遅くならないと戻ってこないのです」
「いや、いいんだ。あんた一人で大丈夫さ……」
 そう言うと老人は少し安堵の色を見せ、話し続けた。
「私はあと幾許も生きられない。知っているんだ。でもその前に、あんたには必ず話さないといけないことがある。だから、今日ここに来たのさ……」
そこまで話すと老人は少し咳き込んだ、屈強な体にもかかわらず病魔が体を蝕んでいるのだろう。アレクセイがブランデーを勧めると、老人はそれでなくウオッカを所望した。
「早いもんだな。あんなにちっぽけな赤ん坊だったあんたが、今では立派な牧場の跡取りだとはな」
老人はそう言うとアレクセイの手を取り、微笑んだ。
「勿体無いお言葉です。イワン・オフロフスキーさん」
アレクセイは、老人の前で会釈するとにっこり微笑み、その手にキスをした。老人は言った。
「まずは、私が幼かった頃のことから話そう。おふくろは、兄を溺愛して甘やかせた。そのせいで、兄はろくでもない人間になってしまった。仕事もせずバクチにふけり、女遊びにウオッカさ。とどのつまりは、勘当され放り出されちまった。私が一五の時さ、おふくろも一緒にな」
「お母様も一緒にですか。でも何故なんです?」
「おふくろが兄をダメな男にしたことを、親父は激怒したのさ。そしてもう一つ、兄を勘当すると言った時に、おふくろは親父に徹底して反対した。結果として、二人揃って家を出ることになったというわけさ。だから私は一五の時から親父一人に育てられた……」
「実際、私は学校での成績も良かったし、親父はとことん私に期待した。親父は彼流で私を一人前にする為の教育を施したんだ。使用人の扱い方、召使の躾、金の使い方、礼儀作法、私は何もかも全て親父流に教え込まれたのさ。私は完璧にそれらを覚え、親父の期待に応えた。でもたった一つ……」
 老人はここまで一気に話すと、息をのみ込んだ。アレクセイが、不思議そうな面持ちで尋ねた。
「たった一つ?」
「たった一つ教えて貰えなかったのは、人の気持ちを思いやるということさ」

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注釈はすべて最終回にまとめてありますので、どうぞよろしくお願いします。

朝の告白 その2

「親父が教えたことといえば、例えばこういったもんさ!」
──女を選ぶ時はできるだけ若いのを選べ。それと従順そうな女をな。でないと後々、お前が放り出すことになる──
──遊ぶ時は遊べ。でも決して溺れるな。女は特にそうだ、遊ぶだけ遊んですぐに捨てて忘れろ──
──召使に情けは無用だ。使用人はとことん使え。できなければどっさり罰を与えろ。褒美は五回に一回でいい──
──金を使う時は、どういった意味で使うのか良く考えろ。それと、自分が使うべき金かどうかもとことん考えぬくんだ。自分の金は使わないに越したことがない──
「こんなことばかり教え込まれて私は育ったんだ」
老人の顔が少し朱を帯びている。アレクセイは、普段から温厚で誰からも慕われているこの老人が突然話し始めた言葉を聞き、不思議な気分だった。
老人は続けた。
「――お前は一流だ、お前は人より優れている、そう信じろ! 俺の後を継げるのはお前しか居ないんだ!―― いつも親父は私にこういった言葉を繰り返し聞かせた。でも実際そうだった。全てが親父の思い通りに運び、私自身もそれが当たり前だと思っていたのさ」
「イワンさん……」
驚いた様子でアレクセイが口を開いた。
「イワンさん、あなたは優しく誰からも尊敬され愛されるお方です。そんなあなたから、こういったお話を聞くなんて、私にはとても信じられません」
「いいや、そうじゃない。現に私は親父が一線を退いてからも、何人の農夫を泣かせ何人の召使に暇を出したことかわからないさ。不作を理由に地代を払わない小作人を、情け容赦なく何人追い出したか知れやしない」
「ある時、娘の病気を理由に、地代の支払いを待ってくれと言った女がいた。その女に私は言った。――地代が払えないならさっさとここを去れ。薬代に事欠くのなら、お前が自分の体を売れば良かろう――と」
「程なくその女の娘は死んだ。女はピャチゴルスク(注三)に流れて売春婦になり、やがて気が狂って死んだ。私はそんな男だったのさ……。そうやって下の者から搾り取ることばかり考えて生きてきたんだ」
老人はそう呟くと、うつろな目でアレクセイを見つめた。
――悲しそうな目だ。目に勢いが無い。本当にこの老人はさっき自分で言ったように、あまり長くないのかもしれない――
そうアレクセイは感じた。
「イワン・オフロフスキーさん、きっとあなたは今日、お疲れなんでしょう。馬車で家まで送らせていただきますよ。帰って休まれたらいかがでしょうか?」
「いいや大丈夫だ。アレクセイ、気を使わせてすまないね……。ところで、あんたの赤ちゃんは元気かね?」
「はい、おかげさまでちゃんと育っています。今クローニャが、上であやしている最中ですよ」
「そうかい、そいつは良かった」
「そうだった、あの時あんたはまだ生まれたばかりの赤ん坊だった。ちょうど私も今のあんたくらいの歳だった。ちょうどあの頃、私はたった一つの出来事で人生を半分棒に振ってしまった。このいきさつを、今日はあんたに話そうと思ってやってきたのさ」
老人はそう喋り終わると、グラスに注がれたウオッカに手を伸ばし、深い息を吐いた。
――私の農園は順調だった。小作が八十と少し、召使が四人いた。ちょっとした財産家で通っていたものさ。私が三一歳の時に親父は一線を退き、程なく他界した。その後は私が全て農園を取り仕切って来たんだ――
そこまで話すと、突然、老人の握り締めた拳が震え始めた。瞬く間に彼の目は涙で溢れ、滴が床に落ちた。老人はしゃがれた声で、悲痛な叫び声をあげた。
「アレクセイ……、アレクセイ・ビルヴァンスキーよ……。今日私は真実を君に告げ、そして謝罪する為ここに来たのだ!」

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朝の告白 その3

老人は語り始めた。
――クリミアでの忌まわしい戦争(注四)が起こる二年前のことだ。あれはちょうどトウモロコシの収穫も終わろうという、夏の夜のことだった――

あの日私は客人を自宅に招いて、久しぶりの晩餐を共にしていた。食事も終わり、客人たちと豆の作柄がどうの、今年の麦の出来ばえはどうの、といった話題に花が咲いていた時だった。突然、誰かが居間のドアをノックした。
「だんな様……、失礼してよろしいでしょうか?」
ノックの主は一人の召使だった。召使は私の顔を見ると深々と頭を垂れ、おずおずと一歩前に進み出た。そして突然の訪問を詫びると客人に向かって一礼し、申し訳なさそうにこう切り出した。
「だんな様……」
「だんな様、あっしの女房は最近家に帰らねぇ! ずっと、ネヴィンノムィスク(注五)のホテルで過ごしているに違いないんです。そして朝から晩まで、喰う時と眠る時以外はバクチを打っているに決まっているんでさ。畑も家の仕事もほったらかし、赤ん坊のミルクだって、ここんところずっと隣家のかかあに頼みっぱなしなんです……。旦那様、あっしはこれから先……、これから先どうやって暮らしていけばよろしいんで?」
彼はそう言うと、悲しそうな目で私を見つめた。私は言った。
「お前は今までからずっと、そうやって駄目な女房を甘やかせてきたんだ。そんなことが原因で、お前の家がどうなろうと俺の知ったことじゃない。どうにもならない女房なら、とっとと別れりゃいいさ。暇が欲しければいつでも言え」
いつもよく働き、従順な召使の目に涙が溢れた。彼が正に絶望の底に沈んでいることは、誰が見ても明らかだった。
召使が懇願するように叫んだ。
「だんな様、それはあんまりでさ。このままだと、あっしばかりか、赤ん坊までどうなっちまうかわからねぇんです。何とかして下せぇませ。後生ですから……。お願いします。お願いします。お慈悲を……」
彼がそこまで話し終えたところで、ずっと私の隣に座り、それまで黙りこくっていた客人が突然口を開いた。
「とんでもねぇことですよ! こんなくだらないこと一つで、こうも簡単に幸せに生きていく権利を毟り取られるのだったら……、」
彼は一気にそこまで話すと、他の客人たちの顔をくるりと見渡し、大袈裟な身振りで話し続けた。
「あっしだったら、今すぐにでもこの世とおさらばしたい、そう思いますよ」
「イワン・オフロフスキーさん、なぜバクチにうつつを抜かしている人間はいつだってこうなんでしょうかねぇ? なぜ家族を放り出して、くだらねぇことに大枚をはたくのか、あっしには到底理解できないんで。実際この男は可哀想なもんだ。自分の女房がこんな始末じゃね」
そう言うと、赤い服を着た御者(注六)は旨そうにウオッカを飲み干し、少し上目遣いで私のほうをちらりと見た。私は彼にこう言ってやった。
「例えばだな、ヴィロンスキーよ。あんたはいい馬を持っているだろう? どんなに遠い道のりの旅でも頼りになる逞しい奴さ。あいつが或る日突然いなくなったとしたら……、あんたならどうする?」
御者が答えた。
「そりゃあ、決まってまさぁ! あれがぶらぶらして居そうな場所へ捜しに行く。そしてそこにいなけりゃ、とっとと諦めて次の馬を探す。それだけです」
私は御者に言ってやった。
「そうさ、だからこそあんたはバクチ打ちにならないんだ。バクチ打ちを養うことも有り得ない……」
私はそこまで話すと、召使の方を見ながら言った。
「ところが世間には、そういった馬を気にかけて夜も眠れない奴がたくさんいるのさ。だからこそ、娑婆にはバクチ打ちがごちゃまんと居るんだよ」
御者が言った。
「イワン・オフロフスキーさん、確かにあなたのおっしゃるとおりでさ。この男はこれまでにきっと女房を甘やかせて来たに違ぇねぇ。だからこそ今、女房がバクチ狂いになって困り果ててるんでさ。でも、赤ん坊に飲ませるミルクの心配もしなきゃならねえ。本当に困っているからこそ、今こうしてここに来ているんじゃないですか」
 それから彼は意味ありげににやりと笑った。そして、もう一度客人たちの方をぐるりと見まわしながらこう言った。
「ここは少し助けてやったらどうなんです?」
 私は召使の方を見た。彼は黙ったままで俯くばかりだった。私は彼に向かって言った。
「よしわかった。お前に一日だけ、暇をくれてやろう。その間に、女房を連れて帰ってくるんだ!」
 すると、しばらくして召使が申し訳なさそうにこう切り出した。
「恐れながらだんな様……、あっしが行こうが誰を行かせようが、あの女はとんと帰ろうとしないんです。これは一体なんとしたものか……」
 その時、また御者が口を開いた。
「イワン・オフロフスキーさん、バクチに狂った奴てぇのは、ちょっとやそっとじゃ連れ戻せませんぜ。誰かを差し向けたところで、無駄飯を食わせるだけでしょうよ。ここは、やっぱ主が行かねぇとね。まあ、それでも連れ戻せるかどうか……」
彼は首を傾げながら、そう言った。だが私は、頑としてこの提案を受けようとはしなかった。
「そんな有様じゃ、たとえ私が連れ戻してきた所でまた元の木阿弥さ。女房が戻ってもすぐにまた甘やかせて、同じことを繰り返すだけだ……。そもそも、バクチに狂う奴は一生直らないし、甘やかせる者は一生甘やかせるもんだ。そんな連中のことをいちいち気にかけていたら、人を使うことなどできるわけがなかろう」
私がこの言葉を話し終えると同時に、突然御者が言い放った。
「イワン・オフロフスキーさん、あなたは意気地なしだ」

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朝の告白 その4

場に一瞬静寂が訪れた。更に御者は話し続けた。
「ねえ旦那、あなたはそもそもあの男の女房を説き伏せて、連れ帰るってことができる人じゃねえ。バクチに狂っている人間をちゃんと説得して、連れて帰るってことに自信が無いんでさ……。そうでなけりゃ、誰だって行くもんだ。よほど情けの無い人でない限りね」
――意気地なし…… それはまあ良かろう、この男の言いそうなことだ──
そう思いながらも私は、御者の次の言葉を苦々しく感じていた。
――情けが無い──
そう! 私は御者のこの一言に言葉を失ったのだ。
──確かに、この私に今まで情けなどあっただろうか? そう、人を思いやることなど、かつてあっただろうか?――
私はしばらくの間、御者のこの言葉を噛み締めていた。しばしの沈黙の後、隣町の地主であるボルドフ・ミハイロヴィッチが口を開いた。
「ヴィロンスキーさん、さっきからあなたの言い方はひどすぎる。言を慎むべきです」
彼は顔色を変え、御者に食ってかかった。
「この結末をどうつけようが、それは主のイワン・オフロフスキーさんがお決めになることです。だいいち我々はこんなことについて、何一つ責任を取れっこないのですからね!」
私は、召使の方を見た。彼はただうなだれているようにしか見えなかった。おそらく、客人の前で主人の醜態を見せてしまったことを後悔していたのだろう。
──自分のせいでこうなってしまった。俺はおそらく暇を出されるに決まっている──
そう思っていたに違いない。御者が言った。
「違ぇねぇ! そのとおりだ。いやいや、あっしはついつい言い過ぎちまった。旦那、申し訳ねえ。気を悪くしないでくだせぇよ」
その言葉とは裏腹に、御者は悪びれる様子を見せなかった。それから私は再び召使の方を見た、彼は相変わらず俯いたままだった。私は強い口調で御者に言った。
「お前に一エーカー(注七)の麦畑をくれてやる……。ただし、お前が俺との賭けに勝ったらの話だ!」
その席にいた者たちが一斉にどよめいた。私は、叫びとも嘆息とも聞こえるどよめきが収まるのを待って話し続けた。
「俺がもし、こいつの女房を連れ戻せなかったら、お前に一エーカーの麦畑をくれてやろう。その代わり、もしちゃんと連れ戻って元の鞘に納まったら、その時は今ここに居る客人と私全員の前で、床に頭をこすり付けて謝ってもらうぞ」
御者が笑いながら答えた。
「旦那、いやイワン・オフロフスキーさん。危ない賭けはやらねぇこった。あっしも悪気があって言ったわけでもねぇんだし……」
私は御者の言葉を遮り、こう言った。
「受けるのか? それとも受けないのか?」
御者が答えた。
「それじゃ、お受けしましょう。もしも旦那が勝ったらその時は、おっしゃる通りにいたしゃしょう。それと……、その女房が二度とバクチに手を出さないと誓うのなら、どうぞあっしの馬屋で一番良い馬を選んで下さいまし、一頭差し上げましょう」
突然召使が叫んだ。
「だんな様! どうぞ無茶な賭けはお止めくだせえまし。あっしの家の為に、だんな様にそんなご迷惑をかけるわけにはいきません。お願いでございます、どうぞお止めくださいまし!」
私は召使の方を見た。そしてその時、彼の目に涙が溜まっているのをはっきりと見た。それまでこの男は、ずっと私の言うことに背こうともせず、真面目に仕え仕事をし続けてきた。そればかりか彼は、自分の事が一番大切な時に、主人である私のことを一番に気遣っていたのだ。
私は胸が熱くなった。涙まで溜めて私を圧し止めようとしている、そんな召使の姿を見るのは生まれて初めてだった。 
私は召使に命じた。
「明日の朝早くに立つとしよう。手短に支度をしてくれ。農場の後始末は、ポローニャとその家族に任せろ、手際よくやるんだ」
私は、御者に言った。
「ヴィロンスキーよ……。私にとって今日は面白い一日になった。礼を言うよ。ただし、この借りはきっちりと返させていただく」
御者は皮肉たっぷりの口調で答えた。
「イワン・オフロフスキーさん、とんでもねえ。礼にはおよびません」
それから彼はいつものように、上目遣いで笑いながら言った。
「それよりも、どうぞご無事で」
それから私は客人たちに彼らを不愉快にさせたことを詫び、召使にもう一本ウオッカを持ってくるように命じた。しばらくして客人たちが先程のように農場の話や世間話を始めると、私は明日早朝から出かけることを理由に席を立ち、後の世話は召使に任せることにした。
二階に上がり寝室に入ると、静かな寝息をたてて妻のリザが眠っていた。子供たちも、乳母にあやされて眠りについたようだった。私は寝室の壁にもたれながら、窓の外を眺めた。少し欠けて青い色をした月が明るく農場を照らしていた。秋の訪れが近かった。
美しい月だったことを覚えている――。だがあの時の私は、それがあの部屋で見る最後の月になろうとは思っても見なかったのだ。

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朝の告白 その5

次の日の朝私は馬車に乗り、ネヴィンノムィスクへと向かった。ネヴィンノムィスクはスタヴロポリから馬車で半日ほどの道のり。もともと商人の町だが、あの頃はこのあたりのちょっとした社交場として知られていたものだ。私は召使の女房であるアンナが、ネヴィンノムィスクに有るホテル・ドゥレステンに居ると聞いていたのだ。
ネヴィンノムィスクの街に入ると、一面のポプラ並木が夕日を浴びて光っていた。街路樹の茂る通りを右に曲がると、もうそこは石畳が敷かれ行きかう人の数も多くなっていた。
そのあたりで出会うのは、バーやダンスホールへ向かう者ばかりで、男は皆正装し女たちは着飾っていた。昼は商人でごったがえす町も、着いた頃にはもうすっかりと夜の佇まいをみせていた。
私は、馬の手綱を引く召使のイリヤーに向かって声をかけた。
「イリヤー、もうすぐ近くまで来たぞ、気をつけろ」
「はい、かしこまりました。だんな様」
ホテル・ドゥレステンは街の中心部よりも少し南にあった。当時あのあたりは、明るいうちは仕立屋や、鍛冶屋などが立ち並び、露天で物を売る人々が集まる市場が出ている場所だった。私はホテルの前で馬車を止めて召使にそこで待つように命じ、真っ先にクロークに行って主任らしい男に尋ねた。
「アンナ・ビルヴァンスカナという女が、ここに泊まっているはずだ。会わせてもらえないだろうか?」
クロークの男が答えた。
「はいお客様、残念ながらあのお方は、もうここにはお泊りになっていらっしゃいません」
「いつここを引き払ったんだね?」
「五日前に、出て行かれました」
「あの女に会いに来たんだ。どうすれば会えるか君は知らないかね?」
「申し訳ございません。私はそういったことはとんと存じませんもので……」
クロークの男は少し申し訳なさそうな手振りを見せ、訝しげに私の顔を見た。私は一枚の百ルーブル札を男に差し出した。そしてその男の目を見つめながら言った。
「どうかね、教えてもらえないだろうか?」
男は愛想良く微笑むと、紙幣をポケットに仕舞い込んだ。
「今も多分、地下のカジノにいらっしゃいますよ。よろしければ、これからご案内いたしますが……」
男はそう言うと、奥の階段へと私を案内した。古い造りの階段は所々絨毯が剥げ、足を置くと軋む音がした。
――賭博場特有のざわめきと煙草の匂い、薄暗い光の中に並んでいるカード用のテーブル、そして部屋の真ん中に置かれた古ぼけたルーレット―― その一室は、ホテルにあるカジノにしては、全く飾りげの無い殺風景な所だった。
私は不思議に思った。
――本当にアンナはこんな所に居るのだろうか?――
それでも席はほぼ満席で、ディーラー(注八)が忙しそうに客の応対をしていた。その時私は、そんな客の中に混じって一人の若い女が座っているのに気づいた。高く積まれたチップの山が彼女の前にあった。一つの勝負が終わり、ディーラーが彼女の前にまた一山のチップを積み上げた。程なく次の勝負が始まり、彼女が叫んだ。
「オンリ(注九)よ、今回は降りるわ」
甲高く、聞き覚えのある声だった。丸くまとめた髪、上品そうなシルクの手袋、少し胸元の開いたピンクのドレス――。私は自分の目を疑った。しかし、彼女はまさしくアンナ・ビルヴァンスカナその人だった。おそらくその声を聞かなければ、私はその女がアンナだと気付かなかっただろう。それほどまでに、彼女はすっかりと変わってしまっていた。
草むしりをして節くれだった手を白く上品な手袋で覆い、きれいに化粧した横顔は、どう見ても赤ん坊を抱えた召使の女房には見えなかった。忙しい家事や子守に追われ、その合間を見て小作の手伝いに出る女がこんな場所に出入りしているとは、誰も気づかなかったに違いない。
私が彼女のテーブルに歩み寄ると、客の一人が声をかけた。
「やあ、これは良いところに来られましたね! 私は今ちょうど、抜けようとしていた所だったんですよ」
私はその男の声を無視してアンナの横に行き、彼女の耳元でこう囁いた。
「私はイワン・オフロフスキーだ。 アンナ・ビルヴァンスカナさんだね?」
女は驚いた表情で私を見上げ、そして低い声で言った。
「だんな様! なぜ、こんな所へ?」
「お前を連れ戻しに来たんだよ.さあ帰ろう! ドゥエルが心配して待っている。赤ん坊にやるミルクにもこと欠いて、とても困っている。さあ、荷物をまとめろ! 明日の朝早くに馬車で出れば、夕方までには帰れるだろう」
しかしながら次にアンナが言った言葉は、私が全く予想できないものだった。
「旦那様……、悪いのですが、私はもうあそこに戻りません。今日はこのままお引取りくださいまし」

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