「それから私は毎日ワイツに乗って市場まで行き、収穫した野菜の商いをして今日まで生きてきたのさ。もっとも、あいつはもう死んでしまったがね……」 
老人はそこまで話し終えると、遠い眼差しで一つ溜め息をついた。 
「そうだ、アレクセイ! 君に一つ頼みが有るんだ。ミハエルが帰還したら、知らせてはくれまいか? 私は反対だったがあの子は軍人になった。帰ってきたら、さぞや暮らしに困るだろう。私たちが働いて少しずつ大きくした畑が有る。せめてもの罪滅ぼしだ、あの子に残してやりたいと思っているのさ」 
アレクセイが涙で腫れた目を拭いながら言った。
「わかりました。必ず伝えます」
老人はやれやれといった表情で立ち上がり、言った。
「アレクセイ、私はもうここに来ることもあるまい。でも、今日まで生きてきて、お前たちのような素晴らしい子達に恵まれてとても幸せだった……。達者でな。そして、ミーシャと親父さんによろしく伝えておいてくれ」
老人は杖を取ろうとして、ゆっくりと立ち上がった。その時、来客を知らせるベルが鳴り、召使がドアの外へ出た。その様子を見ながら、老人が言った。
「ちょうど良い。迎えが来たようだ……」
そう言って老人はアレクセイに一礼し、その場を立ち去ろうとした。アレクセイはただ下を向き、手を握り締めていた。そして正に老人が杖に手をかけようとするその時、アレクセイが叫んだ。
「お父様!」
老人は優しい目で彼を見つめた。それからアレクセイに向かって、はっきりと言った。
「やめてくれ! そして決して忘れるんじゃない! 君は誇り高きドゥエル・ビルヴァンスキーの息子なんだ。リザも誇り高き女性だった……。だが残念ながら、リザはその後生きてこのスタヴォロポリの土を踏むことはなかった。このことは今の私にとって一番の心残りだ……」
「私はここで失礼するよ、君たち一家にどうぞ幸運が訪れますように……」
そして、やって来た老婆に連れられて、老人は去っていった。残されたアレクセイは、呆然とその場に立ち尽くしていた。
するとその時、二階の廊下からアレクセイに話しかける声が聞こえた。
「アレクセイ……」
アレクセイは驚いて上を見上げた。
「お父様! お戻りだったのですか?」
階段の上から、ドゥエル・ビルヴァンスキーがゆっくりと降りてきた。彼はアレクセイの肩を優しく抱いた。アレクセイは、父の胸にすがりつくと悲痛な声で泣いた。
息子の背中を撫でながら、ドゥエルが言った。
「アレクセイ……。もういい。済んだことさ」
アレクセイとその父のドゥエル・ビルヴァンスキーは窓を開け、立ち去っていく老夫婦の後姿を見守っていた。

ドゥエル・ビルヴァンスキーは思った。
――賭博という人生の蹉跌(さてつ 注二八)に出遭い、数々の苦難を乗り越えてきたこの老夫婦にとって、今こそが一番幸せな時なのだ――
――罪という物は時として、犯された者よりも犯した者にとってこそ辛く苦しい試練となる。そして、そういった苦難から解き放たれる為には、途方も無く多くの時間と、そう! 自らを戒め、願い、誓い、そして祈ることが必要なことなのだ――と。

――戒め、願い、誓い、そして祈り続けること――
ドゥエル・ビルヴァンスキーは心の中でこれらの言葉を繰り返し、溜め息をつきながら呟いた。
「途方も無く、大変なことだ……」 
――しかし、こういったことは必ずいつか叶えられるものだ。 ひょっとして、そうしてこそ、人は本当の幸せに手が届くのかもしれない――
ドゥエル・ビルヴァンスキーは、目を閉じた。立ち去ってゆく、赦されし者たちの為に祈りを捧げ続けた。

一面のひまわり畑が金色に染まり始め、丘へと続く径を歩き続ける二人の姿は、やがて夕日に包まれて見えなくなった。老人が他界したという知らせを彼らが聞いたのは、それからちょうど二ヶ月が経ち、ぶどうの収穫が始まった午後のことである。

  【完】


(注一)スタヴロポリ : ロシア中部にある有数の牧草地帯、ゴルバチョフ元大統領の出身地としても有名

(注二)夕餉(ゆうげ) : 夕食のこと

(注三)ピャチゴルスク : スタヴロポリに近いリゾート地
(注四)クリミアでの忌(い)まわしい戦争 : クリミア戦争一八五三年〜一八五六年 ロシアの南下政策を食い止めるために、 ロシア・トルコ戦争の際に英仏がロシアに対して宣戦布告、クリミア半島を中心に行われた戦い。 ロシアは敗戦して国際的に発言力が無くなった。

(注五)ネヴィンノムィスク : スタヴロポリに近い商業都市

(注六)御者(ぎょしゃ) : 馬車などの馬使い、ここでは馬子たちの親方として登場している。

(注七)一エーカー : サッカー競技場一つ分ぐらいの面積

(注八)ディーラー : カードを配り親となるカジノの人間

(注九)オンリ : 勝つ見込みがないと考えて、勝負を放棄すること

(注一〇)ドボン : カードの合計点が二一以上になり、パンクすること バーストともいう

(注一一)バリザム : ロシア独特の浸酒(リキュール)

(注十二)ピロシキ : ロシア式の揚げパン、中にひき肉や野菜、卵などの具が入っている。

(注一三)ラムチョップ : 羊の骨付き肉、タレに漬け込んでローストしたりして食する。

(注一四)ザクースカ : ロシア流のオードブル、キャビアは有名、他に野菜の酢漬けやうなぎの燻製などがある。
(注一五)マデラ酒 : ポルトガル産のアルコール度が強いワイン

(注一六)コペイカ : 一〇〇分の一ルーブル

(注一七)クバン川 : ロシア、北カフカスを流れる川。北に流れてから西に向きをかえアゾフ海に注ぐ。クバン川に大ゼレンチュク川が合流する地点にネヴィンノムィスクの町が広がる

(注一八)カフカス山脈 : カフカス山脈は、ヨーロッパ・ロシアの南縁で黒海とカスピ海との間に、概ね東西に横たわる山脈。西部でロシア連邦領内に頂を持つエルブリス山を最高峰に、四千〜五千メートル級の峻険な山地が連なっている。

(注一九)大ゼレンチュク川 : クバン川と同様にカラチャイ・チェルケス共和国を流れる大きな河川、クバン川との合流地点にネヴィンノムィスクの町が広がる

(注二〇)ブカレスト : ルーマニアの首都

(注二一)路銀(ろぎん) : 旅行の費用

(注二二)サンクトペテルブルグ : ピョートル大帝の名にちなんで名づけられた。かつてのロシア帝国の首都である。

(注二三)マズルカ : もともとはポーランドの舞曲、実際にはフランスに渡り、マズルカと呼ばれた。

(注二四)エルブルス山 : コーカサス山脈の最高峰。 高さは五六四二メートルで、 ヨーロッパの最高峰でもある

(注二五)禊(みそぎ) : 罪やけがれをはらうために、川などで水を浴びて身を清めること。

(注二六)飼葉(かいば) : 牛や馬などに与えるエサ用の牧草・干し草・わらのこと。
(注二七)朝餉(あさげ) : 朝食
(注二八)蹉跌(さてつ) : 失敗すること、過ちを犯すこと。


注意書き

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